福聚講

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佛教人生読本(岡本かの子)・・・その70

2014-04-17 | 法話

第七〇課 知られざる傑作


 フランス十九世紀の文豪、バルザック(西暦一七九九年に生れ、一八五〇年に歿す)の有名な作品の中の一つに、「知られざる傑作」というのがあります。
「一人の独身の絵画の老大家が巴里に住んでいました。十年近くもかかって大作を描き上げているという評判が巴里の画に関係する人々の間に弘がっていました。しかし老大家は、彼の新工夫の描き方を、仲間に盗まれるのを惧れて、絶対に人に見せませんでした。老大家の描こうと企てているのは、この世の中で最も美しい女性、それを生きたもの同様な溌剌さで画布の上に現そうとするのでした。
 絵に熱心な若い画家がありました。どうかして老大家の作を見たくて堪りません。しかしその望みは全く絶望でした。老大家は相変らず頑固に画室の扉を押えて、中へ入れないのでした。若い画家に、世にも美しい一人の恋人がありました。彼女は若い画家の天分を認めもし、またその人物をも愛していました。ふと、その画家の恋人に老大家が眼をつけます。モデルに欲しいというのです。それもただのモデルではなく、自分の描きつつある女の像と、その娘と、どっちが美しいか見較べようという下心があるのでした。
 娘は、若い画家のため老大家のモデルになることを承知しました。有頂天になった老画家は、思わず娘と一緒に若い画家を画室の中へ連れ込みます。若い画家の悦びはどれほどであったでしょう。しかし、彼には自分の恋人の犠牲を察して暗い顔つきのところもありました。
 それほど苦心して近寄った老大家の傑作は、どうでありましたろうか。若い画家の眼の前に立てられてある一大画布には、ただ絵の具の厚い重なりがあるばかりで、これが女の像とはもちろん受け取れないばかりでなく、却って、空漠たる画面が寒さを襲うばかりでありました。しかし老大家は得意の絶頂です。その画面を指しながら、恍惚うっとりとして言います。
『君たちは、まさかこれほどの完成とは思わなかったろう。見給え、若い娘の形そのものじゃないか。この胸、ぴくぴく肉が動いている……』
 若い画家は自分の眼を疑って、自分の見方が悪いのではないかと思いました。そこで、斜から眺めたり、距離を工夫してみたりしましたが、やはり何物も掴めませんでした」
 以上、この小説に含まれている思想は、いろいろに取れます。これについて種々な芸術論もあります。しかし、帰するところは仏教も同じであります。
 私たちが、一つの物事を突き詰め、分析して考えて行くと、一度は必ず「空くう」(執着せぬ、こだわらぬ、あるいは自由さということです。常に因、縁、果によって変化し行く自由性を言います)の世界に行き当ります。それは因、縁、果、で出来たものに過ぎませんから、本体は「空」であります。若い、みずみずしい女の肉体とて同じことであります。そして、その行き当った「空」の世界は、その自由さ、その豊饒さ、創造力ある人間にとっては無限に肥えふとった宝田であります。いかなる種子たねも蒔けば生え、いかなる根も卸せば育つのであります。働く人の働き如何によって、真、善、美の理想は、思いのままに取出せる無尽蔵の庫であります。しかし、創造せず、働かぬ人にとっては、ただ一色いっしきの「空」の世界であります。
 老大家の画家は、十年、女の肉体を凝視、分析し続けて行って、いま、その「空」の世界に突き当ったのであります。厚く積み重なった絵の具の層は、その凝視分析の研究の跡であります。女の肉体の現象を、因、縁、果と描き分け、観分けた筆の痕であります。ここまででも粒々辛苦のあとは兎に角、察せられるのであります。
 老大家は、ひとたび「空」の世界に行き当って、その自由さ、豊饒さに酔ってしまったのでありました。そして此地ここを以て美の理想の究極だと思い取ったのであります。なんぞ図らん、それは美の畑だけであり、田だけであります。如何に田畑は肥えているにしろ、種子も蒔かぬ、根も卸さぬ田畑は、実際の収穫には縁遠いものであります。それはちょうど、農夫がただ肥えふとった田畑を見て、独りで楽しんでいる気持ちであります。
 老大家は、農夫の肥田を見付けたときと同程度の心の段階で楽しんでいるのでした。そして、それを以て、もう黄金こがね浪打つ秋の実りにさえも思い取るのでした。「空」の世界は自由であります。女の美しさを思い浮ばせようとすれば、まざまざそれが、そこに浮び上り、肉体のみずみずしさを見ようとすれば、直ちにそうも見えるのであります。しかし「空」の世界を体験しない、また創造の播種の種子を持たない他人には、全く何もないとよりしか受取れないのであります。独り合点に終るのであります。よく「無弦の琴」とか、「無声の韻」とかいう言葉がありますが、これはその心境を解したもの同志の間で言うことであって、これを生なまのまま人に理解を押し付けるといわゆる「野狐禅やこぜん」とか「生悟なまさとり」とかいうものになりまして、却って仏教が世間から誹そしりを招く基になるのであります。
 この肥えた土地を発見した老大家は、それへ創造工夫の種子を蒔いて、折角掴んだ理想美を誰にも解りやすく摘み取れるよう、成長開花せしむべきでありました。それをしないで肥えた土地、すなわち実りと、早合点してしまいました。模糊の絵を見て不審がっている若い画家の顔を見て、老大家は自信を裏切られたように感じました。一度は自信を取り戻そうと努めましたが、うまく行かなかったか、翌日自殺してしまいました。
 ひとたび、この「空」の世界の宝田を見付け、それから、これによき種子を蒔き、よき実りを得さしめて、それを人々に与えようとする修業を、悟後ごごの修業とも、百尺竿頭一歩を進むとも言いまして、人生これからが大いに他人のために働くべきときであります。釈尊が菩提樹下で正覚後四十五年の説法、それに次いで代々の宗祖、高僧がたの利生方便はみなこれであります。
 話があまり専門的に亘ったようですが、私たち普通人にも独り合点、早合点はよくあることです。すべての物事は誰にも判るよう、誰とも話し合えるようにすることで初めて物の役に立つのであります。それまでは、いくらいいものでも、種子蒔かぬ、根ざさぬ肥えた田であります。これによっても解るように、私たちは、世の中には上にも上の修業があって、行き止まりがないということを知るのであります。
 ちなみに、ここに引用したバルザックの作品は小説であります。芸術品は芸術品として別に味わう方面があり、これだけの解釈のために使っては気の毒でありますが、悟後の修業の例として大変便利なので持って来ました。読者はこれを承知して頂きたい。
(「知られざる傑作」とはよく言ったものです。われわれの人生もまさに知られざる傑作を身と口と心で書いているようなものです。それがどういう大作であるかはこの老人の様に凡人の他人に評価されるべきものではなくて神仏に評価されるべきものです。信仰をするとどこへ連れていかれるのですかというひとがいますが、それは夫々の人の因縁・心境によって違うのです。一律に此処とはいえません。まさにそれぞれが自分の実存をかけて自分で選んだところへ行くのです。そしてその過程が「知られざる傑作」でもありましょう。しかしこの傑作は完成ということがありません。未来永劫描きつずけるのです。)

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