第六九課 都会と田舎
都会と田舎を、言葉を換えて言えば、文化生活と自然生活と言えます。
文化生活は、人智の発達複雑化に伴って、自然生活から変化して来たものであります。それは人間の福祉幸福を望んで造りなされたために、もちろん便利、迅速、知識的でありますが、しかしその内部には、人間の欲望、煩悩、愚痴等が働きかけて、禍福相半ばするものであります。そこに都会の持つ俗人への魅力もあるわけです。多くの犯罪、悪徳、不健康も含有されがちです。誘惑、堕落、精神的過労が附きものです。
これに反して田舎の生活は、健康的であり、平和、悠暢であるべきはずです。それと同時に反面、時代後れや、不活溌、平凡、退屈があり、筋肉労働があるのです。
両者を人体に譬うれば、田舎は胴体であり、都会は頭部であります。胴体のしっかりした上に載っかってこそ頭部は充分に働けるのです。また胴体だけでは反射的に、習慣的にいろいろのことをなし得るのでありますが、頭部によりいろいろ判断、支配されるものですから、頭部が駄目なら胴体も乱雑になりがちです。
どんな大都会でも、はじめは片田舎であったのが、いろいろの因縁によって、人家が密集し来って、出来上ったものです。自然生活をなしつつあった人々がその飽くことなき人間の欲望を遂げんとして、知識に、経験に、感情に、感覚に、その威力を振って都会を築き上げて来たのであります。故に、そこには素晴しい文化があるかわりに、その内面には人間の醜い半面が集合していることになります。余りに世間欲や、知識にばかり夢中になって、自然の持つ恩恵や真理から遠ざかっている点もあります。そして欲望は募り募って、今では、その惰性に成行きを委すのみとなっている傾向が覗えます。東京で三代続いた家には肺病があるとさえ言われるように、不健康になっています。もちろん肺病ばかりでなく、精神病や、神経病も随分多いことと思います。
世界に無類の高層建築を誇るニューヨーク市では、エンパイヤビルディング、クライスラービルディング、ウォーズウォースなど五十階以上のビルディングをはじめとして無数の高層建築は比較的狭き道路の両側に建ち並び、道路は宛然、谷底のごとく、太陽の直射は一日ほんの僅かな瞬間だけ恵まれるのみであります。退社時刻ラッシュアワーには、一建築の中に通勤する数万の人達が、先を争って帰途を切り開かんと、物凄い労力と苦心が行われます。もちろん、彼らの多くは自家用の自動車や、地下十六階に及ぶほどの多数の地下鉄を利用するのですが、一度に押し寄せてはなかなか整理がつかないのです。四時に退ひけて郊外の自宅にたどりつくのが大抵八時になるとさえ言われます。その間三、四時間の人の波に押されもまれる不健康さを思うとき、人生の便利、幸福を望んで発達し来ったはずの都会生活も、今では却って人間を滅ぼしつつあるとさえ思われます。ここにも、人間の心の三毒(貪・瞋・痴)が露あらわれているのを見ます。もちろん、周囲の事情、国内的、国際的関係によって(それも全部、三毒から起った事情関係です)、勢いそんな不健康な設備をしなければならなかったであろうが、これも何とかして三毒の善用によって活路が開かれることと思います。
同じアメリカでも、キネマ、トーキーの都、ホーリーウッドを擁するロスアンゼルス市では、早くも都会の密集せる人口と、それにともなう多数の自家用自動車、および高層建築に朝夕呑吐する、無数の従業員などによる交通不便と不健康とを慮かって、新しく建てる商店、銀行、会社などの高層建築は、人里離れた山の中腹や、物淋しき郊外の草原に孤立させ、広大な自動車預り所を設けて、市中より乗りつけるお客を待つのであります。都会生活がそのままそっくり、自然生活へ転換されたのであります。この考案設備は、自利、利他の効果を挙げる点より言えば、菩薩行に相当するものです。
日本の都市は、地震の危険のため、外国の大都市と違って、高層建築と言われるほどのものはありませんから、その方面の弊害は少いのですが、それ以外に気候に乾湿の差が烈しく、吹きまくる烈風は砂塵を上げ、職業戦線は狂わんばかりの競争が行われ、鬱屈する気分は刹那的、末梢的の快楽を追い、外国より直輸入された一過性の思想は昨今殊に目まぐるしく崩れ行きて、しかも東洋思想の優れたるものあるを覚らずして、いずれに頼るべき中心思想なく、迷いわずらい、頽廃の兆さえ歴然と見えるようであります。反省すべき都会生活です。
田舎の生活について述べますと、田舎は天然自然を相手に暮すのですから、本当は気楽で、健康的であるはずです。しかし、近頃の田舎の生活ぶりを見聞すると、却って都会より不安、不況、餓死せんばかりの地方がかなり沢山あるようです。これは何によってそうなったのでしょう。天災地変に因るのは別として、大抵は都会生活の行きづまりが倍加して田舎生活に響いたのではないでしょうか。頭部に相当する都会の状態が胴体たる田舎に悪影響を与えたからだと言えないでしょうか。世界のいずれの国でも、地方はその産物を都会に売って経済を保持して行くのですから、都会におけるその産物の需要如何によって、田舎は富みもし、また不況にもなるわけです。この点、国家、政府として余程物産の売り捌きを活溌ならしめ、物価の調節を計らぬと田舎の経済状態は危険に瀕するのであります。欧州のある国家では、自国内の農村を救わんために、その植民地や属国の農民を犠牲にすることさえあります。すなわち、国内で農作が豊年の時は、農作物の値段が下落することを恐れて、植民地や属国から輸入される農作物をその年だけ全部現地で焼き捨てたり、没収したり、安価で買い占めて隠してしまったり、高い輸入税を課してなるだけ国外から入り込まないように努めます。そして国内で収と穫れたものだけを売り捌かせますので、その国内だけでは、豊作、凶作に拘らず、農作物の値段は適当に保たれます。しかし犠牲に供せられる植民地や属国の農民達こそいい面の皮です。私はこんな政策を不当と思います。それよりも、もっと良心的な、本格的な、確実な田舎生活の安定法があると思います。農村問題、漁村問題などを専門に研究していらっしゃる方々も随分沢山ありますし、また、実際地方の人々がその問題について実地に苦心、復興を計っておられますから、私などが何も申し上げることはありませんが、唯、私がフランスの田舎にいた時、見聞した農夫の生活ぶりを参考までにお伝えして置きたいと思います。
フランスの農夫は言いました――もちろん政府の保護政策を期待してはおりますが、しかし、その保護なくとも自分達は、立派に暮しだけ立てて行かれる準備をしている――と。彼らは、きまって自分の家の周りに、一番手近かに飲食料の貯蔵所、家畜、野菜畑、果樹園を置き、次に穀物畑、葡萄畑、次に牧場、最後に小さな灌木の密林(野鳥獣を棲息させて、時折りこれを捕ったり、家具を作る木材を得る)という順に置いて、一幅の風景画のように、各家庭が散在しております。そして十数個から数十個の家庭が団結して一をなし、お互いに才能に応じていろいろの仕事を分担して専門的に行わせます。耕作の上手な人々は一団となって順番に全部落の家庭の耕作事業を片付けて行く。裁縫の上手な娘は、前の担任者の後を享け継いでその全部の裁縫を引き受けて、家事の閑にあかして仕上げて行く、たとい嫁入りしてもその女は一生専門に村有のミシン機械を使用して裁縫をし続けます。バターを造るのも村の専門家、決してその素人専門家の悪口や失敗をなじることや、横取りすることはありません。依頼するのに物々交換ですから、少しも金は要りません。自給自足ですから殆んど都会から格別な品物を金で買い入れぬことにしております。そして過剰の収穫物は村の組合でまとめて都会へ売り、組合で最新式の耕作具や穀物の刈り取り機械を購入して、その機械を得意な人々数人に保管させたり、各家庭の収入金の三分の一を貯金し、三分の一を金貨にして床下の甕に蓄え、残りの約三分の一で税金や組合費に当てます。一見原始的であります。世界の流行の中心と言われる巴里を持つフランスが、その田舎においてかかる祖先伝来の原始的な生活方法を奨励しかつ誇っているのに私は一驚しましたが、しかし使用する機械だけは全体の醵金によって、最も能率のあげられる精鋭なものに次から次へと買い換えて、の専門家に充分の働きをさせるところなどは、なかなか利口なやり方だと感心しました。
最近、日本の田舎の村々が自力更生、自給自足を叫んで盛んに組合制度を利用されるのは、やはり不自然な文化の弊害に負けまいとして、自然生活の根本の中へ最新文化を消化し入れた英断であって、その智慧は、仏智にも達するものであります。
(高僧は喧騒を避け田舎を好まれた例は至る所にあります。道元禅師の永平広禄に「僧家は山に居するを好む、離欲清浄、是沙門の法」「世尊言、山林眠睡佛歓喜、聚楽精進、佛不喜」正法眼蔵、仏性には「山河を見るは仏性をみる。」などとあります。
またお大師様は「游山慕仙誌」「山中に何の楽しみかある」等の詩で自然を賛美しておられます。町を賛美する高僧はあまり見かけません。)