福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中論第三章

2013-11-03 | 諸経
六つの認識(眼、耳、鼻、舌、身、意)により、
六つの対象(形、声、香、味、触、法)を認める。

見ることによって、心が生まれるのだから、
心を見ようとしても、心は見えないのである。
というのも、見られた心は、すでに心ではなく、
それを見ている心だけが、心と言えるからである。

火は、自らを焼かないが、他のものを焼く。
同様に、心は自らを見ずに、他のものを見る。
すなわち、心が見ている物は、心に現われるが、
それを、見てしまうと、もはや、その物ではない。

見ているだけでは、認められないのである。
認識するには、見て考えることが必要である。
見て考えるから、見ているものが明確に変わり、
見て考えないなら、見ているものが曖昧に止まる。

見ているものが、他に見られることはない。
見ていないものも、他に見られることはない。
確かに良く考えると、良く見えるようになるが、
それは、ただ、より近づいて見ているだけである。

明らめることなしに、諦らめてはならない。
明らめずに諦めるのは、囚われた見方である。
何かを見ていることと、何かが見えていること、
これは、現実の表裏であり、幻想の産物ではない。

見ている者と見られている物は、別である。
このような、誤まった考えを抜け出した時に、
識、触、受、愛、これら、四つの段階が現れる。
この四つが存在しないのならば、何も存在しない。

眼識、見る事についての考察は、以上である。
耳識、鼻識、舌識、身識、意識も、同様である。


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