福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「覚海法橋法語」

2020-08-17 | 諸経
「覚海法橋法語」
覚海法の物語に云く、真言教の習ひ、普通の人情に同不同の二義あり。この教意にて、真実に無情菩提を願ふとは、すべて何れの処に生まれて何れの身とならむと思わず、自心を常に清めて随身転色の即事而真の観をなすべきなり(どういう境涯に生まれても即事而真として心を清めよ・・即事而真とは「事に即して而も真なり」と読み、現実の一つ一つにこそ真理がある、との意)。所期の浄土とは須弥山の九山八海を密厳道場とするなり。色相の仏身に於いては、十界悉く曼荼の聖衆なり。(希望する浄土というのは、須弥山世界である。即ち、現実の、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏、すべての人々が曼荼羅の中の諸仏なのである)。覚(覚海)が身なりとも仏身にあらざるべきにあらず。心を改むるを仏と云ふことなれば、五大成身観 熟しなば即ち曼荼の聖衆とこそいほうずれ(即身成仏に到る五つの観法が熟したならば、曼荼羅の中の佛であるといえよう)相続の依身によって九界と佛界と分別することは、流転生死の間なり。生界と佛界と格別の思は別執の甚だしき也。(現実の、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の身と仏の身を分離する考えは、流転して迷っている間の考えである。衆生界と仏界を分けるのは執着心の甚だしいものである。)現覚の諸法本初不生なるときに、草室の棟柱に至る迄これ法界宮殿の材木なり。須弥山九山八海等に於いて、華厳世界を観ずるといふは、この世界において即事而真の法界道場を建立する故也(華厳でいう、時間も空間もそれぞれが相互に無限に入り組んでいるという世界観をもつということは、現実の一つ一つが真理であるという法界道場観を作り上げることである)。真実には我が居りたる房舎を密厳浄土と観じて、自身の左右前後に四智四行を布列し、乃至九会十三大会法界胎蔵界の曼荼羅の上に、金剛界三十七尊塵刹聖衆、各々に自證の月輪に坐したまふと思ふべきなり。(真実には自分がいる家を密厳浄土と観じて、自分の周りに居る人々を胎蔵曼荼羅の十三の各院の佛と思い、金剛界曼荼羅の三十七尊が月輪の上に入らっしゃると思え)。因位のときに起こす所の心・心所は観法坐禅の間に、金剛界の中に入って心王大日の各々智印三昧と顕るるなり。(修行時におこす心や心の対象は観法や坐禅をしているときに、金剛界の中にはいって大日如来の悟り・印となるのである。)実我固執の心を改めて、依他縁生の法に於いて、実相常住の思ひを為すべきなり。世の中に後世を欣ふ人々幾ばかりそ。併しながら執心いまだ蕩けざる故に、都率極楽において、難易の不同を論じ、密厳華蔵においては思いを絶ちて望む人は一人も無きなり。自宗の真言教を習ふ人もただ事相真言の人は常見也。教相を立てる人は空見なり。近代のありさま、事相教相一体無二と思い定むる人やなからむ。
私に聞いて云はく、「御身などは何れの佛、何れの浄土をか期し思食候や。御心とけて真実に思食被れそうろう覧こと、ありのままに仰せ給へ」と云ふ。誠に流転生死の串執蕩けがたく、覚分晴れやらぬ歎き、愚意無間にこのことを思い候。かやうに法門の深義御身の自證をたずねて承はり候事は、度世名利前途後栄の為に非ず。唯無上菩提の為なり。小僧(筆者覚海上人のこと)若し言葉いつはり候ならば、大師・明神の御罰を蒙り候はん。無始より己來、自他の別執重き故に生界仏界を隔て候なり(無始以来、自他を峻別してきたために衆生界と仏界が隔てられている。)設ひ、阿僧祇劫を経るともこの心は蕩けがたく候なり。南(覚海)云く、「まことに出離得脱の道、常に心に懸けて、たびたび此の如くに云はる、哀れにこそ覚ゆれ。設ひ心を明めずといえども、然のごとく思ふは即ち併しながら善心なり。その心許りにても三悪道(地獄・餓鬼・畜生)ははなれなむ。その上、宗義の大旨をば、意得されたり。誰も未證の凡夫なれば、さやうの心のおこるをこそは相憑む事にてあれ。但だ諸法の縁起縁滅を倩々せいぜい案ずるに、真実にあながちに都率極楽をも執せず、また密厳・華蔵においても、偏執あるべからず。しずかに思ふ時には、何に生まれて何にならむとも思わず、心だにも浄めつるならば、龍・夜叉等の身となりたりとも苦しからず。内證かしこき雑類の棲む所は、我等が住所には似ず。彼はみな浄土にてあるなり。人体は吉し、雑類・異形は悪しと偏執するは,悟り無き故なり。相続の依身はいかなりとも苦しからず。臨終に如何なる印を結ぶとも思わず。思ふやうに四威儀(行・住・坐・臥)に住すべし。動作いずれか三昧にあらざらん。念念声声は悉地の観念真言なり。實に心に妄念あらばこそ、この念を止めてとこそ観ずべけれども、思わず。況や身・口の二業をや。又此の如し。但だ行者の用心は常に出入りの息に阿字を唱え、心に縁生実相の観念をなすべきなり。臨終なんど強ちに人に知られず、善智識をも用ふべからず。自他の意格別なれば同じ観念すれども、さすがに我意に同ぜず。我意に同ぜざる人はなかなか無きはよきなり。意だにも静かになりなば、心を以て善智識と為すべきなり。五智坊なんどの臨終に、人にも知られず、正念に住して入滅せられたるは哀れに貴くこそ覚ゆれ。彼の人は争ひなく密厳浄土をねがはれし人なり。すべての人の問には何れの佛ともあからさまにはいわれざるなり。私に曰く、止むこと無くんば、人々はすべて十界において執心なく、さすがに相続の依身、無量にして、或は人中・天上、或は都率・極楽・鬼・畜・修羅等の果報を受くることは、何によって受くると心得え候や。南云く、十界において執心なきゆえに、九界の間遊びあるくほどに、念念の改変によって依身を受くるなり。さやうになりぬれば十界住不住自在なり。偏執着心によって九界雑類の身なんど感じたるもの、此の業力所感の故に、業の尽不尽によって、生を改めて、所生の処に憶持不忘の人の為には、人中・天上即浄土なり。密号名字を知れば、鬼畜修羅の棲も密厳浄土なり。ふたり枕を並べてねたるに、一人は悪夢をみ、一人は善夢を見るが如く、同行同法として一師に同じ法文を習へども、心に随ってその益不同なり。六欲天は楽に着いて諸天に仏法なけれども、都率には一生補処の菩薩の浄土あり。娑婆世界は五濁の境なれども西方浄土あるなり。心浄ければ即ち佛法土と云ふ、これなり。凡心を転ぜば、業縛の依身即ち所依住の正報の浄土なり。その住所もまたこの如し。三阿僧祇の間は、此の理を知らんがために修行して時節を送るなり。 
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