殺生禁断の命令集(例)
・最初の殺生禁断のお触れは「日本書紀・巻二十八・天武四年」に「夏四月庚寅(675年4月17日)、四月庚寅(十七日)に、「諸国に詔して曰はく、「今より以後、諸の漁猟(すなどりかりする)者を制(いさ)めて、檻穽(ししあな)を造り、機槍(ふみはなち)等の類を施(お)くこと莫。亦四月の朔以後、九月三十日より以前に、比満沙伎理(ひみさきり=小魚まで獲る仕掛け)・梁を置くこと莫。且牛・馬・犬・猿・鶏の宍を食ふこと莫。以外は禁の例にあらず。若し犯すこと有らば罪せむ」とのたまふ。」
・日本書紀・天武天皇五年(676)年八月壬子十七日条の条に放生会の初見「是日、諸國に詔し以って放生せしむ」。
・日本書紀・持統五年691年六月戊子、詔曰「此夏の陰雨(ながあめ)節に過ぐ、懼くは必ず稼を傷まんかと。夕に惕み朝に迄るまでに憂懼(ゆうく)し、厥(そ)の愆(けん・咎)を思念す。其の公卿百寮人等をして禁斷酒宍(ミキシシ=酒と肉食)・攝心悔過せしめ、京及畿內諸寺の梵衆は亦た當に五日誦經せよ。庶(ねがはく)は補あらんことを焉。」
・続日本紀・養老五年721七月庚午(25日)「庚午、(元正天皇)詔して曰く。凡そ霊図に膺(あた)り、宇内に君臨す。仁、動植に及び、恩、羽毛に蒙れり。故に周孔の風は尤も仁愛を先にし、李釈の教は深く殺生を禁ず。宜しく其の鷹司の鷹・狗、大膳職の鸕鷀(ろじ・鵜)、諸国の鶏・猪を悉く本処に放ち其の性を遂げしむべし。従今而後。如有応須。先奏其状待勅。其放鷹司官人。并職長上等且停之。」
・八幡宮宇佐御託宣集(13世紀)「聖武天皇元年(神亀元年725)甲子託宣したまはく。吾この隼人等を多く殺却する報には年別に二度放生会を奉仕せんてへり。一万度の放生のこと畢りぬ。眷属を引率して浄刹に送らんてへり。扶桑略記第二にいわく、養老四年九月征夷のこと有り。大隅・日向両国乱逆す。公家宇佐八幡に祈請す。その祢宜辛島勝波豆米、神軍を相率ゐ、彼の国を行きその敵を打ち平ぐ。大神託宣したまはく。合戦の間、多く殺生を致す。宜しく放生を修すべしてへり。諸国の放生このときよりはじまる。・・。」
・続日本紀・天平二年730九月庚辰(29日)「(聖武天皇)詔して曰く・・・又、法を造りて禽獣を捕こと、先朝禁断す。・・しかるに諸国なほ法籬を作して擅(ほしいまま)に人兵を発し、猪鹿を殺害す。計(はか)るべき頭数なし。直に多く生命を害するのみに非ず、實に亦た章程に違犯したり。宜しく諸道に頒ちて並びに湏(すべから)く禁断すべし。」
・続日本紀・天平四年732・七月六日「(聖武天皇)畿内百姓私畜猪四十頭を和買して山野に放たしめ性命を遂げしむ」
・続日本紀 ・天平九年(737)五月壬辰(十九日)
「 (聖武天皇)詔曰 四月以来 疫旱並行し、田苗燋萎す。是に由りて山川に祈祷し神祇に奠祭すれども未だ効験を得ず。今に至り猶苦しむ。
朕不徳を以て實に玆の災を致せり。思ふに寛仁を布きて以て民の患を救はむ。国郡をして寃獄を審録し、骼路(きゃくろ・主要道路)を掩ひ、胔を埋めて、酒を禁ち、屠を断たせむ。
高年の徒、鰥寡こ独及び京内の僧尼男女、 疫に臥して自存する能はざる者には 量加賑給せよ。 又た普く文武職事以上に物を賜うふ。天下に 大赦す・・」 (後略)
・続日本紀・天平十三年(741)二月七日「(聖武天皇)勅。馬・ 牛は人に代りて、勤しみ労めて人を養ふ、葱に因りて、先に明き制有 りて屠り殺すことを許さず、(日本書紀・天武天皇四年の「夏四月庚寅。今より己後は、禁断せしめ更 に犯す者有らば、必ず重き科に擬む」の詔勅)
今聞く、国郡未だ禁止する事能はず、百姓独りする事あり。宜しく其の犯すこと有らば蔭贖(おんしょく・注1)を問ず先ず杖一百を決して然る後に罪を科すべし。」
(注1)蔭贖とは日本古代の律における刑事上の特典。贖罪の一種。天皇,三后,国家から特別の処遇を受けた者,七位・勲六等以上を有する者の,それぞれ一定範囲の親族に対して与えられる。それらの者が流罪以下を犯した場合,贖銅をもって実刑に代えることが許される。
・続日本紀・天平十三年(741)三月乙巳(廿四日)『国分寺建立の詔』「・・・毎月六斎日には公私漁猟殺生することを 得ざれ。国司等宜しく恒に検校を加うべし。」
・続日本紀・天平勝寶元年749正月朔。(孝謙天皇)「元旦より始めて七日の間天下の諸寺をして悔過せしめ金剛明経を転読せしめ又天下の殺生を禁断す」
・続日本紀・天平勝寶四年(752)正月辛巳(三日)(孝謙天皇)「正月三日より始て十二月の晦日に至るまで天下の殺生を禁断す。但し縁海の百姓、漁を以て業と為し生存することを得ざる者には其の人数に随って日別に籾二升を給ふ」
・続日本紀・天平勝寶七年(755)十月丙午(二十一日)「(孝謙天皇)勅す。太上天皇(聖武上皇)枕席安からず・・今日より始めて来る十二月晦日に至るまで殺生を禁断す。」
・続日本紀・天平勝寶八年(756)六月庚寅(八日)「(孝謙天皇)詔して曰く、‥天下の民、誰か孝を行ぜざらん。宜しく天下諸国に告げて今日より始めて来年五月三十日に至るまで殺生を禁断せしむべし」(天平勝宝8年5月2日に聖武天皇が薨去)
・続日本紀・天平寶字二年758秋七月甲戌(十七日)、「(孝謙天皇)勅すらく、此来、皇太后(光明皇太后)寝膳安からず。稍(ようやく)に旬日を経ず。朕思ふに、年を延べ疾を済ふは仁慈悲に若くは莫し。宜しく天下諸国をして今日より今年十二月三十日迄、殺生禁断せしめよ。猪鹿の類を以て進御することを得ず。」
・続日本紀・天平宝字八年766九月甲戌(二十四日)「(淳仁天皇)勅して曰く、天下諸国、鷹狗及び鶏を養ひて以て田猟することを得ざれ。又諸国御贄の雑宍魚類等を進むること悉く停めよ。」
・続日本紀・天平寶字八年(764)十月乙丑(十一日)「(称徳天皇)放鷹司を廃して放生司を置く」
・続日本紀・宝亀六年(775)九月壬寅(十一日)「(光仁天皇)勅すらく・・十月十三日は是朕が生日なり。此の辰に至る毎に感慶兼ねて集る。宜しく諸寺の僧尼をして毎年是日転経行道せしむべし。海内の諸国、幷に宜しく屠を断ずべし。」
・続日本紀・延暦十年791九月十六日「(桓武天皇)・・・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊等の国の百姓、牛を殺して漢神を祭るを断ず」
・日本紀略・延暦十二年(793)正月癸巳(十四日)「(桓武天皇)卅九僧を宮中に請じて,始て藥師經を讀ましむ。天下に令して殺生を斷ずること七日」
・日本紀略・延暦二十年801四月八日「(桓武天皇)越前国をして屠牛祭神を禁断せしむ」
・北山抄・延喜二十年801六月十四日条「(桓武天皇)三合の厄に依り、諸国社寺に奉幣転経して、災異を禳はしめ、斎会中、殺生を禁断せしむ」
・日本紀略・延暦二十三804十二月壬戌(21日)「(桓武天皇)勅す。牛の用の為、国に在りては切要なり。重きを負ふて遠きを致す、其の功實に多し。如聞、無頼の輩、争って驕侈を事し、尤も斑犢(はんとく・子牛)を剥いで競ひて鞍韉に用ふ。弊となす。良深事須らく禁断す。自今已後、刹剥等の具を用るは一切禁断す。若し違犯あらば違勅罪を科す」
・続日本後紀・天長十年(833) 三月丁未(20日)「百口の僧を延じて大極殿において、大般若経を転読す。以って年穀を祈り兼ねて疫気を攘う也。天下に普告して殺生を禁断す、三ヶ日を以て限る。」
・続日本後紀・承和五年(838) 四月甲午(7日)「 勅す、去歳年穀稔らず、疫癘間発す。夫れ般若の力は不可思議なり。宜しく十五大寺五畿内七道諸国及び大宰府をして、大般若経を奉読し、一七ケ日殺生禁断すべし。」
・吾妻鑑・建久元年1090六月九日「宣旨を諸国に下して殺生を禁断せしむ」(後鳥羽天皇)
・中右記・嘉保一年1094十一月「二十七日、殺生禁断官符請印」(堀河天皇)
・中右記・康和五年1103七月三日「興福寺供養によりて殺生禁断す。官符請印。」(堀河天皇)
・中右記・永久二年1114九月十四日、「法皇、検非違使別当藤原宗忠をして、賀茂供御所を除くの外、田上・宇治の網代を撤せしめ給ひ、殺生を禁ぜしめ給ふ」(鳥羽天皇・白河法皇)
・帝王編年記・天治二年1125「是冬、天下に令して殺生を厳禁せしむ」(崇徳天皇)
・御産部類記・天治二年1125五月二十三日 「(白河)法皇、尊勝陀羅尼万遍、小塔万基、木像等身仏十数体を供養し、待賢門院の御平産を祈り給ふ、又造仏供養、賑給、放生等あり」
・百練抄・大治元年1126十月二十一日「(白河)法皇、洛中の篭鳥を放たしめ給ふ」
・吾妻鑑・文治四年1188二月己卯(十三日) 「・・・但し頼朝、亡母の為五重の塔婆を造営す。今年重厄に依って殺生を禁断しをはんぬ。・・」
・吾妻鑑・建久六年(1195)八月癸丑(小一日)「(頼朝)至于放生會之期。殺生禁断事。嚴密被仰下云々。」
・吾妻鑑・建仁三年1203十二月己酉(十五日)
「尼御台所(北条政子)の御計らいとして、諸国地頭分の狩猟を止る。清図書の允清定これを奉行す。」
・吾妻鑑・弘長三年1263「八月四日辛亥。放生會の供奉人中に鹿食の憚り有る之由を申す輩の事、嚴制に違犯する之條、然る不可之旨、殊に仰せ下被る之處、 各 陳謝 有り」
(幕府、放生會扈從將士の肉食違犯を呵責)(天皇は亀山天皇。鎌倉将軍は宗尊親王、執権は北条長時。)
・師守記・康永三年1344六月二十四日「幕府、六斎日に殺生を禁断せられんことを奏請す、是日、北朝、大外記中原師右をして其例を勘せしむ」(北朝方が光明天皇、南朝方が後村上天皇。室町幕府は足利尊氏)
・看聞日記・應永二十七年1421四月五日癸卯「幕府故准三公足利義満第十三回忌辰、幕府、殺生禁断の令を下す」
・天正十五年1587六月十八日「伴天連追放令」(肉食を理由としている)
「伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事、
国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事、
其国郡知行之義、給人被下候事ハ当座之義ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
弐百町ニ三千貫より上之者、伴天連ニ成候に於いてハ、奉得公儀御意次第ニ成可申候事、
右の知行より下を取候者ハ、八宗九宗之義候條、其主一人宛ハ心次第可成事、
伴天連門徒之儀ハ一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡ニ寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりニ成候儀、無其隠候事。
本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ、雖免置候、寺内ニ如前々ニは不被仰付事、
国郡又ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者ハ可被加御成敗候事、
伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事、
大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。
右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也、
天正十五年六月十八日 朱印(御朱印師職古格)」
・令條記・慶長十七年1612八月六日「・・牛殺事御禁制也。自然殺べき輩は一切賣べからざる事。・・」(徳川秀忠)(令條とは江戸幕府の法令の集成)
・御触書集成・享保十七年1733閏五月「備前備中近江の内にて落牛と號す所々より、老牛を買夥しく殺す候段、相聞へ候。右躰の儀は之有間敷き事に候。自今猥成の儀の無き様、御料私領へ相触さるべく候以上。」(徳川吉宗)
・令條記・貞享四年1687九月戊寅三日、「幕府府下に令して、生類を途上に傷ふ者あれは其人を舗舎に拘留するを停め、其住居姓名を記して目付に訴へしむ・・」徳川綱吉
・令條記・元禄六年1693十月「是月幕府、又、令して、犬狗を傷損するを禁す」徳川綱吉
・令條記・元禄十年1697六月「是月幕府、列侯に令し、封内の逆罪・放火・生類傷損等の犯人、幕府の法に准し、其藩中に於て之を処断せしむ」徳川綱吉
・最初の殺生禁断のお触れは「日本書紀・巻二十八・天武四年」に「夏四月庚寅(675年4月17日)、四月庚寅(十七日)に、「諸国に詔して曰はく、「今より以後、諸の漁猟(すなどりかりする)者を制(いさ)めて、檻穽(ししあな)を造り、機槍(ふみはなち)等の類を施(お)くこと莫。亦四月の朔以後、九月三十日より以前に、比満沙伎理(ひみさきり=小魚まで獲る仕掛け)・梁を置くこと莫。且牛・馬・犬・猿・鶏の宍を食ふこと莫。以外は禁の例にあらず。若し犯すこと有らば罪せむ」とのたまふ。」
・日本書紀・天武天皇五年(676)年八月壬子十七日条の条に放生会の初見「是日、諸國に詔し以って放生せしむ」。
・日本書紀・持統五年691年六月戊子、詔曰「此夏の陰雨(ながあめ)節に過ぐ、懼くは必ず稼を傷まんかと。夕に惕み朝に迄るまでに憂懼(ゆうく)し、厥(そ)の愆(けん・咎)を思念す。其の公卿百寮人等をして禁斷酒宍(ミキシシ=酒と肉食)・攝心悔過せしめ、京及畿內諸寺の梵衆は亦た當に五日誦經せよ。庶(ねがはく)は補あらんことを焉。」
・続日本紀・養老五年721七月庚午(25日)「庚午、(元正天皇)詔して曰く。凡そ霊図に膺(あた)り、宇内に君臨す。仁、動植に及び、恩、羽毛に蒙れり。故に周孔の風は尤も仁愛を先にし、李釈の教は深く殺生を禁ず。宜しく其の鷹司の鷹・狗、大膳職の鸕鷀(ろじ・鵜)、諸国の鶏・猪を悉く本処に放ち其の性を遂げしむべし。従今而後。如有応須。先奏其状待勅。其放鷹司官人。并職長上等且停之。」
・八幡宮宇佐御託宣集(13世紀)「聖武天皇元年(神亀元年725)甲子託宣したまはく。吾この隼人等を多く殺却する報には年別に二度放生会を奉仕せんてへり。一万度の放生のこと畢りぬ。眷属を引率して浄刹に送らんてへり。扶桑略記第二にいわく、養老四年九月征夷のこと有り。大隅・日向両国乱逆す。公家宇佐八幡に祈請す。その祢宜辛島勝波豆米、神軍を相率ゐ、彼の国を行きその敵を打ち平ぐ。大神託宣したまはく。合戦の間、多く殺生を致す。宜しく放生を修すべしてへり。諸国の放生このときよりはじまる。・・。」
・続日本紀・天平二年730九月庚辰(29日)「(聖武天皇)詔して曰く・・・又、法を造りて禽獣を捕こと、先朝禁断す。・・しかるに諸国なほ法籬を作して擅(ほしいまま)に人兵を発し、猪鹿を殺害す。計(はか)るべき頭数なし。直に多く生命を害するのみに非ず、實に亦た章程に違犯したり。宜しく諸道に頒ちて並びに湏(すべから)く禁断すべし。」
・続日本紀・天平四年732・七月六日「(聖武天皇)畿内百姓私畜猪四十頭を和買して山野に放たしめ性命を遂げしむ」
・続日本紀 ・天平九年(737)五月壬辰(十九日)
「 (聖武天皇)詔曰 四月以来 疫旱並行し、田苗燋萎す。是に由りて山川に祈祷し神祇に奠祭すれども未だ効験を得ず。今に至り猶苦しむ。
朕不徳を以て實に玆の災を致せり。思ふに寛仁を布きて以て民の患を救はむ。国郡をして寃獄を審録し、骼路(きゃくろ・主要道路)を掩ひ、胔を埋めて、酒を禁ち、屠を断たせむ。
高年の徒、鰥寡こ独及び京内の僧尼男女、 疫に臥して自存する能はざる者には 量加賑給せよ。 又た普く文武職事以上に物を賜うふ。天下に 大赦す・・」 (後略)
・続日本紀・天平十三年(741)二月七日「(聖武天皇)勅。馬・ 牛は人に代りて、勤しみ労めて人を養ふ、葱に因りて、先に明き制有 りて屠り殺すことを許さず、(日本書紀・天武天皇四年の「夏四月庚寅。今より己後は、禁断せしめ更 に犯す者有らば、必ず重き科に擬む」の詔勅)
今聞く、国郡未だ禁止する事能はず、百姓独りする事あり。宜しく其の犯すこと有らば蔭贖(おんしょく・注1)を問ず先ず杖一百を決して然る後に罪を科すべし。」
(注1)蔭贖とは日本古代の律における刑事上の特典。贖罪の一種。天皇,三后,国家から特別の処遇を受けた者,七位・勲六等以上を有する者の,それぞれ一定範囲の親族に対して与えられる。それらの者が流罪以下を犯した場合,贖銅をもって実刑に代えることが許される。
・続日本紀・天平十三年(741)三月乙巳(廿四日)『国分寺建立の詔』「・・・毎月六斎日には公私漁猟殺生することを 得ざれ。国司等宜しく恒に検校を加うべし。」
・続日本紀・天平勝寶元年749正月朔。(孝謙天皇)「元旦より始めて七日の間天下の諸寺をして悔過せしめ金剛明経を転読せしめ又天下の殺生を禁断す」
・続日本紀・天平勝寶四年(752)正月辛巳(三日)(孝謙天皇)「正月三日より始て十二月の晦日に至るまで天下の殺生を禁断す。但し縁海の百姓、漁を以て業と為し生存することを得ざる者には其の人数に随って日別に籾二升を給ふ」
・続日本紀・天平勝寶七年(755)十月丙午(二十一日)「(孝謙天皇)勅す。太上天皇(聖武上皇)枕席安からず・・今日より始めて来る十二月晦日に至るまで殺生を禁断す。」
・続日本紀・天平勝寶八年(756)六月庚寅(八日)「(孝謙天皇)詔して曰く、‥天下の民、誰か孝を行ぜざらん。宜しく天下諸国に告げて今日より始めて来年五月三十日に至るまで殺生を禁断せしむべし」(天平勝宝8年5月2日に聖武天皇が薨去)
・続日本紀・天平寶字二年758秋七月甲戌(十七日)、「(孝謙天皇)勅すらく、此来、皇太后(光明皇太后)寝膳安からず。稍(ようやく)に旬日を経ず。朕思ふに、年を延べ疾を済ふは仁慈悲に若くは莫し。宜しく天下諸国をして今日より今年十二月三十日迄、殺生禁断せしめよ。猪鹿の類を以て進御することを得ず。」
・続日本紀・天平宝字八年766九月甲戌(二十四日)「(淳仁天皇)勅して曰く、天下諸国、鷹狗及び鶏を養ひて以て田猟することを得ざれ。又諸国御贄の雑宍魚類等を進むること悉く停めよ。」
・続日本紀・天平寶字八年(764)十月乙丑(十一日)「(称徳天皇)放鷹司を廃して放生司を置く」
・続日本紀・宝亀六年(775)九月壬寅(十一日)「(光仁天皇)勅すらく・・十月十三日は是朕が生日なり。此の辰に至る毎に感慶兼ねて集る。宜しく諸寺の僧尼をして毎年是日転経行道せしむべし。海内の諸国、幷に宜しく屠を断ずべし。」
・続日本紀・延暦十年791九月十六日「(桓武天皇)・・・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊等の国の百姓、牛を殺して漢神を祭るを断ず」
・日本紀略・延暦十二年(793)正月癸巳(十四日)「(桓武天皇)卅九僧を宮中に請じて,始て藥師經を讀ましむ。天下に令して殺生を斷ずること七日」
・日本紀略・延暦二十年801四月八日「(桓武天皇)越前国をして屠牛祭神を禁断せしむ」
・北山抄・延喜二十年801六月十四日条「(桓武天皇)三合の厄に依り、諸国社寺に奉幣転経して、災異を禳はしめ、斎会中、殺生を禁断せしむ」
・日本紀略・延暦二十三804十二月壬戌(21日)「(桓武天皇)勅す。牛の用の為、国に在りては切要なり。重きを負ふて遠きを致す、其の功實に多し。如聞、無頼の輩、争って驕侈を事し、尤も斑犢(はんとく・子牛)を剥いで競ひて鞍韉に用ふ。弊となす。良深事須らく禁断す。自今已後、刹剥等の具を用るは一切禁断す。若し違犯あらば違勅罪を科す」
・続日本後紀・天長十年(833) 三月丁未(20日)「百口の僧を延じて大極殿において、大般若経を転読す。以って年穀を祈り兼ねて疫気を攘う也。天下に普告して殺生を禁断す、三ヶ日を以て限る。」
・続日本後紀・承和五年(838) 四月甲午(7日)「 勅す、去歳年穀稔らず、疫癘間発す。夫れ般若の力は不可思議なり。宜しく十五大寺五畿内七道諸国及び大宰府をして、大般若経を奉読し、一七ケ日殺生禁断すべし。」
・吾妻鑑・建久元年1090六月九日「宣旨を諸国に下して殺生を禁断せしむ」(後鳥羽天皇)
・中右記・嘉保一年1094十一月「二十七日、殺生禁断官符請印」(堀河天皇)
・中右記・康和五年1103七月三日「興福寺供養によりて殺生禁断す。官符請印。」(堀河天皇)
・中右記・永久二年1114九月十四日、「法皇、検非違使別当藤原宗忠をして、賀茂供御所を除くの外、田上・宇治の網代を撤せしめ給ひ、殺生を禁ぜしめ給ふ」(鳥羽天皇・白河法皇)
・帝王編年記・天治二年1125「是冬、天下に令して殺生を厳禁せしむ」(崇徳天皇)
・御産部類記・天治二年1125五月二十三日 「(白河)法皇、尊勝陀羅尼万遍、小塔万基、木像等身仏十数体を供養し、待賢門院の御平産を祈り給ふ、又造仏供養、賑給、放生等あり」
・百練抄・大治元年1126十月二十一日「(白河)法皇、洛中の篭鳥を放たしめ給ふ」
・吾妻鑑・文治四年1188二月己卯(十三日) 「・・・但し頼朝、亡母の為五重の塔婆を造営す。今年重厄に依って殺生を禁断しをはんぬ。・・」
・吾妻鑑・建久六年(1195)八月癸丑(小一日)「(頼朝)至于放生會之期。殺生禁断事。嚴密被仰下云々。」
・吾妻鑑・建仁三年1203十二月己酉(十五日)
「尼御台所(北条政子)の御計らいとして、諸国地頭分の狩猟を止る。清図書の允清定これを奉行す。」
・吾妻鑑・弘長三年1263「八月四日辛亥。放生會の供奉人中に鹿食の憚り有る之由を申す輩の事、嚴制に違犯する之條、然る不可之旨、殊に仰せ下被る之處、 各 陳謝 有り」
(幕府、放生會扈從將士の肉食違犯を呵責)(天皇は亀山天皇。鎌倉将軍は宗尊親王、執権は北条長時。)
・師守記・康永三年1344六月二十四日「幕府、六斎日に殺生を禁断せられんことを奏請す、是日、北朝、大外記中原師右をして其例を勘せしむ」(北朝方が光明天皇、南朝方が後村上天皇。室町幕府は足利尊氏)
・看聞日記・應永二十七年1421四月五日癸卯「幕府故准三公足利義満第十三回忌辰、幕府、殺生禁断の令を下す」
・天正十五年1587六月十八日「伴天連追放令」(肉食を理由としている)
「伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事、
国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事、
其国郡知行之義、給人被下候事ハ当座之義ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
弐百町ニ三千貫より上之者、伴天連ニ成候に於いてハ、奉得公儀御意次第ニ成可申候事、
右の知行より下を取候者ハ、八宗九宗之義候條、其主一人宛ハ心次第可成事、
伴天連門徒之儀ハ一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡ニ寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりニ成候儀、無其隠候事。
本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ、雖免置候、寺内ニ如前々ニは不被仰付事、
国郡又ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者ハ可被加御成敗候事、
伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事、
大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。
右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也、
天正十五年六月十八日 朱印(御朱印師職古格)」
・令條記・慶長十七年1612八月六日「・・牛殺事御禁制也。自然殺べき輩は一切賣べからざる事。・・」(徳川秀忠)(令條とは江戸幕府の法令の集成)
・御触書集成・享保十七年1733閏五月「備前備中近江の内にて落牛と號す所々より、老牛を買夥しく殺す候段、相聞へ候。右躰の儀は之有間敷き事に候。自今猥成の儀の無き様、御料私領へ相触さるべく候以上。」(徳川吉宗)
・令條記・貞享四年1687九月戊寅三日、「幕府府下に令して、生類を途上に傷ふ者あれは其人を舗舎に拘留するを停め、其住居姓名を記して目付に訴へしむ・・」徳川綱吉
・令條記・元禄六年1693十月「是月幕府、又、令して、犬狗を傷損するを禁す」徳川綱吉
・令條記・元禄十年1697六月「是月幕府、列侯に令し、封内の逆罪・放火・生類傷損等の犯人、幕府の法に准し、其藩中に於て之を処断せしむ」徳川綱吉