福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

さとりいる十の心のひらけてぞおもひのままによはすくひける ・・・

2024-12-03 | 法話

続千載和歌集・後宇多院御製に
  
「十住心論の開内庫授宝」として

さとりいる十の心のひらけてぞおもひのままによはすくひける」とあります。
 
『秘密曼荼羅 十住心論』の略本たる『秘蔵宝鑰』に「九種の心薬は外塵を払って迷いを遮し、金剛の一宮は内庫をひらいて宝を授く」(第一住心から第九住心までの顕教は迷いを否定して覚りへ向かうが密教は直接の悟りの境地を目指す。)」とあります。後宇多院は密教に深く帰依されましたがそれは真に民衆を救うためだったのです。

後宇多法皇は、祖父後嵯峨上皇、父亀山天皇。文永11年(1274年)8歳で亀山天皇から譲位を受けて践祚。治世中には、元・高麗軍による文永・弘安の両役、いわゆる元寇が発生し、身を以て国難にあたらんとされ、東寺長者道宝・勝信らに両部大法受け、禅助(仁和寺真光院首・東寺長者)に受戒、其の後叡尊に再度受戒、徳治二年1307禅助の許で出家、翌年より東寺西院小子坊に住み修行、禅助から廣澤流、醍醐憲淳から小野流の伝法灌頂を受け、大覚寺に住す。大師を慕い真言宗の外護に努められた。
正和2年(1313年)高野山参詣、途中雷雨に遭うも輿に乗らなかったとされる。高野山には大師御真筆とされる御影堂の二十五箇条を施入。また所縁の寺には多くの御宸筆を残され国宝・重文となっている。大覚寺には国宝、御手印遺告、弘法大師傳一幅のほか高雄曼荼羅修覆記、灌頂私注上一巻、灌頂印明六巻‥悉曇印信七帖等々。東寺には国宝の東寺興隆條々事御添状、庄園敷地施入状二巻、弘法大師像賛等。醍醐寺報恩院には国宝、当流紹隆教戒三通一巻と御消息一巻、御灌頂御諷誦一通。神護寺には灌頂暦名の施入状一通、寄進状一幅、が残っている。

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