「神祇秘抄」・・6/22
六、御鎮坐の事。
問、御鎮坐の事、異説不同也。何の義を以て之を定むべきや。
答、日本紀の意、上古より當代に至る、御鎮坐の處幷に時代等の事、大都、定置かれる所なり。仍て代々の帝王之を以て指南と為し、祭祀を送らる云々。
重問、しからば天照太神は何代に天臨り給へるや。
答、彼の神は天上に在り、御降給はざるなり。
又問、若し此の神下天せざれば、鎮坐の社殿何を以てか神躰と為すや。
答、此の神、日宮殿に御坐の時、諸の荒振神と競はれ、天下を照らさざること八萬劫云々(口伝に云、八萬劫は則ち八萬煩悩云々)(平家物語劔の巻にはこの期間を三十一万五千載とする。「天照大神は日本を譲り得給ひながら、心の任(まま)にも進退せず。第六天の魔王と申すは、他化自在天に住して、欲界の六天を我が儘に領ぜり。然も今の日本国は六天の下なり。「我が領内なれば、我こそ進退すべき処に、この国は大日といふ文字の上に出で来る島なれば、仏法繁昌の地なるべし。これよりして人皆生死を離るべしと見えたり。されば此には人をも住ませず、仏法をも弘めずして、偏に我が私領とせん」とて免さずありければ、天照大神、力及ばせ給はで、三十一万五千載をぞ経給ひける」。)此の間、一人の皇子を儲け給ふ。地神二代尊是也(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)のこと)。又其の二代尊又龍神の息女(玉依姫)を嫁給ふ。一人の息女、儲給ふ地神三代の尊號なり。是皇御孫と號す(天津彦彦火瓊瓊杵尊 (あまつひこひこほのににぎのみこと) )。天照神、御孫に命じて曰、汝に三種の神寶を授く、速やかに下天して萬民を撫べし。此の三種の神寶は我正躰なり、同殿同床して我を見る如く再拝致し群生を済ふべし云々。
則ち三種の神寶是也。仍って彼尊下り給ひて三種の神寶を持ち、勅法の如く天下を収め玉ふ云々。其の後歴代、神武天皇(人王の始)宮造より以降、宮中に於いて神寶を崇奉る。天照神とは正しく天上に坐して常に一大法界を照らし、萬類を利す。之を大日と號す。我國鎮坐の神は三種神祇なり、之を勧請神と名く。或人云、天照神は来臨の神なり云々、誤れるなり。神武天皇より以来人皇九代(神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化)は宮中に御ます。第十代尊崇神天皇后(垂仁の母)、御手筥中に人に似たる虫化生す。后之を取りて御自ら錦に裹みなんとし給ひて、之を養育す。程なく人と成る。女神なり(倭姫命とされる。倭姫命は垂仁天皇の皇女で、天照大神の社を、伊勢の 五十鈴川のほとりに建てたと伝えられる。 また、 日本武尊の東征の際、 草薙剣を授けて難を救ったとされる)。然間、第十一代尊垂仁天皇の皇女と定めたまふ。但し此の女人、萬事に付き正しく潔き人なり。之に依りて垂仁の曰、是れ尋常の人に非ずとて神に付け奉るとて三種神祇を付し奉る。是内侍局の始めなり。或時彼内侍局(號して大和姫)垂仁天皇に語りて云、世俱多利(くだり)、人の機漸く曲りて而も神と同殿同坐、尤も恐れ有るべきなり。急いで宮造り遷し奉れと申し給る之。(天照大神の詔(斎鏡の神勅)によれば、御鏡はご歴代の天皇が同殿同床をなさるという。崇神天皇の時代、これでは神威を冒涜する恐れがあるというので、宮中に同殿同床であったのを別に社を建て、同殿同床ではないことになった。宮中以外に奉斎することになり、最初は笠縫、それから伊勢に鎮座。のちに八咫鏡は伊勢神宮に祀られた御神体と、皇居に安置される賢所の鏡の二つが存在する事となった)。
其の時皇帝然るべしと三種の神祇、此の姫に渡し奉る。姫之を頂戴し給ひ宮中を出、諸國を廻り串引たまひ鎮座の在所を卜ひ給ふに、神、都て肯はず。一宿の處を給ひ名けて神部と名く(今の神戸)休み給ふ所を御厨と名く。之に依りて鎮坐といふ處々に之在り。此の如く経廻給ひて伊勢國二見浦に到り給ふ。此の所に於いて御卜給ふに、南を指出し行くべしと御占す。之に就きて楠木船に乗りて南海に浮び嶋國を廻り、熊野浦に付き給ふ。此の所に鎮坐の時は楠船神と號す。熊野権現是也(日本書紀では「鳥之石楠船神」(「熊野諸手船」別名「天鴿船」)という、使者の稲背脛を載せた乗り物が登場するがこれと混同した名をつけられているのかも)。又彼の浦に於いて御卜給ふに本方伊勢國に帰と御卜す。然間、又御伊勢國二見浦に還る云々。此の浦本號は磯浦なり。而して神、二度還たまふ故に其の後二見浦と名く云々。此の所に於いて御卜給ふに、此の山の奥に入るべしと云々。仍って河に付て上り給ふに一人の翁此の姫を遇し奉るに曰く、此の山奥は何の所に又何事か有るやと問給ふ。翁答て云、此の山奥に或大木の本、常に瑞光を放つこと是在り云々。姫曰、願かうは我を彼の所に導け云々。即翁彼の所に指南し奉り、則ち此の大木の邊に至る。落ち葉を拂って之を見給ふに一の瑪瑙の石坐有り(根拠不明)。是則ち天上より採り給へる大日の印文是也。(沙石集に「すべては、大海の底の大日の印文よりことおこりて、内宮・外宮は両部の大日とこそ習ひ伝へて侍りし」とあり。)仍って御占い給ふに此の所に安置すべしと云々。而して此の石上に宮柱廣敷立て、三種神祇を安置し奉る。以来伊勢大神宮と號し、皇女をば大和姫皇女と號す。次に彼の皇女御裳を濯ぎ給ひし河を御裳濯川(みもすそがは)と號す。御鎮坐の南にあ當る。又東より流出の河、五十鈴川と名く。是我朝鎮坐の所、安め置るること此の如し。次に又御卜給、是より西に當るに古神います、之を勧請し奉りて両宮に祝べしと御卜給ふ云々。古記を以て之を検するに丹後真那志郡佐中山に御鎮坐の一神也(今の外宮の豊受大神)。之を勧請し奉る。