今日は後嵯峨上皇が石清水八幡宮に仁王經法を修して、異國降伏を祈られた日
八幡愚童記・文永五年1268三月五日の条「後嵯峨法皇(注1)の御賀をおこなはるべしとて天下の営他事なかりしも閣れ異国降伏の御祈祷諸寺諸社に始めらる。當宮には三月五日より浄行の社僧四十五人を以て毎日仁王講を行はる。同月十三日十四日には八幡の善法寺(注2)の長老實相上人(注3)、法園寺長老中道上人(注3)、先として浄侶三十人大般若経を転読結願に當て金泥の大般若供養あり。導師は實相上人、請僧三十口は社僧なり。」
(文永五年1268一月には蒙古の使者が国書を持参して大宰府を訪れています。)
(注1)後嵯峨天皇は熊野・高野などに参詣し、また寺塔の造営、経論の書写などにつとめられた。和歌にも長じられ、建長三年には藤原為家に命じて『続後撰和歌集』を、文永二年にも為家ら五名に命じて『続古今和歌集』を撰進させた。後嵯峨上皇は嵯峨に亀山殿を営み、文永五年十月五日同所で御出家。法名素覚。同九年二月十七日亀山殿内の寿量院で崩御。寶算五十三。御陵は天竜寺内の嵯峨南陵。
(注2)善法寺 http://ritsuji.web.fc2.com/rekishi.html
(注3)「史籍集覧」に「八幡法園寺の開基法園寺哨基中道諱聖守大和國の產なり憲深僧正に密故を學ひ大悲菩薩に具足戒を受く修法の功駿殊に著明ならし中に弘安四年七月蒙古の兵艦太宰府に到すし節後宇多天皇の勅を奉し實弟實相律師と共に石清水八幡の社前に大法を修し外寇を除き叡慮に預かり社僧其の奇瑞を賞し更に師を請して法園寺を創建以て開祖とす。」