福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

山家学生式

2017-09-26 | 諸経
山家学生式

国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人言く、「径寸十枚、これ国宝に非ず。照千・一隅、これ則ち国宝なり」と。古哲また云く、「能く言ひて行ふこと能はざるは国の師なり。能く行ひて言ふこと能はざるは国の用なり。能く行ひ能く言ふは国の宝なり、三品のうち、ただ言ふこと能はず行ふこと能はざるを国の賊しなす」と。乃ち道心あるの仏子を、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己れに向へ、好事を他に与へ、己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり、釈教の中、出家に二類あり。一には小乗の類、二には大乗の類なり。道心あるの仏子、即ちこれこの類なり。今、我が東州、ただ小像のみありて、未だ大類あらず。大道未だ弘まらず、大人興り難し。誠に願わくは、先帝の御願、天台の年分。永く大類となし、菩薩僧となさん。然るときは則ち、枳王の夢猴、九位、列り落ち、覚母の五駕、後三、数を増さん。この心、この願、海を汲むことを忘れず、今を利し後を利して、劫を歴れども窮まりなけん。


国宝とは何か。国宝とは道心なり。この道心ある人を名づけて国宝と言う。ゆえに先の世の哲人は「径寸十枚、これ国宝に非ず。照千・一隅、これ則ち国宝なり」といった。(『史記』(田敬仲完世家に)斎の威王は、「我が国の宝は宝石類などではなく、四人の優秀な臣下である。彼らはよく国の一隅を守り、まさに国の宝として千里を照らすものだ」といった、とある。)古代の哲人(後漢の牟融ぼうゆう)がまた言うには、「良く発言する事は出来るが行動しないのは国の師で。良く行動して発言しないのは国に有用な人だ。良く行動し良く発言する事は国の宝だ、三種のうち、ただ発言もしない行動もしないのは国の賊である」と。すなわち道心ある仏の弟子を、印度では菩薩と名づけるし、中国では君子と言う。悪い事は自己に向け、好い事を他人に与へ、自己を忘れて他人に利を与えるのは、慈悲の極みである。釈迦の教えの中に、僧侶には2種種類有り。一は小乗、二は大乗である。道心ある仏弟子、即ちこれは大乗なり。今、我が国では、ただ小乗のかたちのみが有って、いまだ大乗の仲間はいない。大道(大乗)はまだ弘まらておらず、大人(大乗)は起こりがたい。誠に願うのは、桓武天皇の御願、天台の年分度者を永く大類(大乗の人)とし、菩薩僧としたい。その時はすなわち、枳王の夢猴(夢に見た猿)9匹が滑り落ち(足る事を知った10匹うち1匹の猿のみ残り後の9匹は滑り落ちたように悪徳僧侶は去り、覚母(文殊菩薩)の羊乗行・象乗行・日月神通乗行・声聞神通乗行・如来神通乗行という五つの駕のうち菩薩乗である後の三つが数を増すでしょう。この心願は海の水を汲みつくしても、現在将来の衆生を利益して永遠に窮まる事は無い。

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