今日は梅原猛氏の命日です。氏は2019年(平成31年)1月12日93歳で亡くなっています。
1、梅原猛「歓喜する円空」には「(明治維新と敗戦により)日本は世界の国々の中でほとんどただ一つの、少なくとも公的には神も仏も失った国となったのである。」としています。
「円空は護法神を多く作って、日本の神々がすべて護法神となって仏法を護ることを願ったが(「飛州史」には円空の「我山岳に居て多年仏像を造り、其の地神を供養す」という言葉が残っています)、以後、仏法を排斥する神の学、国学というものが起こり、明治維新を迎える思想の原動力の一つとなり、明治新政府をして神仏分離・廃仏毀釈の政策を採らしめた。まさに円空の期待に反して神が仏を滅ぼしたのである。しかしその神は円空の言う、縄文時代の昔から日本にいる神々ではなく、新しく作られた国家という神であった。実はその新しい神は、仏とともに日本のいたるところにいた古き神をも滅ぼしたのである。そしてその新しき国家という神もまた、戦後を境にして死んでしまったのである。こうして日本は世界の国々の中でほとんどただ一つの、少なくとも公的には神も仏も失った国となったのである。」「歓喜する円空」
2、講座「宗教と文明」の中では「宗教を忘れた文明」として「近代教は自我を基としているがこれをあらため無常/輪廻観を根本に据えなければ現代世界は救われない」と説いています。
「宗教を忘れた文明とはまさに現代文明であり、このことを最初に洞察したのは芥川龍之介で「河童」の中で、河童の世界で一番盛んなのは近代教である、これは「くえまら教」(食欲と性欲を信奉する)である。生活教の大寺院の中はいかにも荘厳であるがその中身は喰えよ飲めよセックスせよである。この寺院の両側にはいくつかの大理石の神像がある。それは生命の宗教(生活教)を信じて救われなかった聖者の像であるという。ストリンドベリ、ニーチェ、トルストイ、国木田独歩、ワグネルといった人達が両側の段に奉られている。・・この芥川と同じようなことをいいながらもっと深く今日の文明の病気を分析した人がドストエフスキーである。「カラマーゾフの兄弟」は・・カラマーゾフ兄弟の話である。この兄弟の親はヒョードルという男であるが、金儲けが大変うまい、金儲けの為なら卑劣なことも平気でする、今の日本の多くの実業家と同じである・・・まさに「くえまら教」の極致である。・・(ヒョードルは次男の無神論者イワンの影響を受けた(ヒョードルが生ませた乞食の子)スメルジャコフに殺される。)イワンは無神論者である、それは神の存在も魂の不死も否定する。そんなものは存在しない。宗教は無意味である。宗教が無意味だとしたら道徳も存在しない。だから人を殺してもよい。人殺しの一番重いのは父殺しである。父を殺しても構わないという無神論の結論を尊重しその理論的帰結をスメルジャコフは実行する。・・しかしこの小説の後半はアリュウシャ(三男で生まれつき篤い信仰心の持ち主)が主人公になっていくとドストエフスキーは予告する。・・人間に対する暖かい愛と神を実感することができる感性をもっているアリュウシャによってカラマーゾフの一家が救われることを書きたかったのではないか・それは書かれずに終わった。・・・無神論の帰結には二つあって一つは資本主義の無神論である。それと社会主義の無神論である。・・芥川は近代の宗教は「生活教」「くえまら教」であるといった。ドストエフスキーはそれをヒョードルという人間(金儲けとセックスに目がない)によって風刺した。此の実態は自我の信仰である。・・デカルトは「われ思うゆえにわれあり」と考えた・・その理性主義をカントが受け継いで我という者は理性をもたなくてはいけないのであり実践的理性であるべきとした、つまり神を後ろに下げて道徳的な理性を信仰せよと説いたのである・・しかし宗教が失われれば道徳的理性も失われてやがて欲望が主体となってくる。・・この「我」というものは人間の幻想ではないか・・自我を絶対化する考えは人間を横の生物のつながりから孤立させ、縦の時間のつながりから孤立させる誤った考えだと思う。・・私は日本の宗教は無常だと思う・・無常は輪廻であり流転しながら魂は不死である。・・そこへもう一度帰らないと人間の無神論の病も癒されない。・・」(講座「宗教と文明」の「宗教を忘れた文明」)
3、この考えを裏付けるように、梅原猛は柳田国男を評価して「『日本人のアイデンティ ティーは先祖崇拝であった、先祖崇拝を失ったら、もう日本人は日本人でなくなる』という警告としてこの本(先祖の話(柳田国男))は書かれたのである。(梅原猛「あの世と日本人 浄土思想の諸相」)」といっています。