福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

アナと雪の女王より・・その1

2014-07-24 | 法話
アナと雪の女王に「・・ありのままの 姿見せるのよ
ありのままの 自分になるの
何も怖くない 風よ吹け
少しも寒くないわ
悩んでたことが うそみたいね
だってもう自由よ なんでもできる・・」という歌詞があります。
或る日この歌詞を聞いていて、是は大変な言葉が使われているとおもいました。
「ありのままの姿みせるのよ、ありのままの自分になるの」というのですが、『ありのままの自分』が分ればこんな凄いことはありません。しかし是が体得できないので人類は今日まで延々と迷い苦しんできたのです。
「自分とは何か?」ということは古来人類にとって永遠の「謎」なのです。

ギリシャのデルフォイ神殿には「汝、自らを知れ」という言葉が掲げられていたといいます。古代インドでは「梵我一如(宇宙原理と自我の一致)」が即ち解脱とされ人々は修行にはげみました。
以来西洋哲学も東洋思想も「自己」「我」とは何ぞやについて延々と思索・修行を重ねてきました。

漱石の「吾輩は猫である」には「・・僕などは終始一貫父母未生以前からただ今に至るまで、かって自説を変した事のない男だ・・」と云う表現が出てきますがこれは漱石が当時の傑僧・釈宗演にもらった公案「父母未生以前本来の面目」によると言われています。これは「父母が生まれる以前はお前さんはどこにいたのか」という問いです。翻って「自分とは何者であるか」ということです。

自分自身、いままでは俗事に追われて「自分とは何者か?」など考える事は変人の時間つぶし位にしか思っていませんでしたが、最近七十歳を前にしてやっと『自分とは何者か』と問う余裕ができたように思います。大谷大学の初代学長であった清沢満之は、「自己とは何ぞや。これ人生の根本的問題なり。」つまり、我々は本当に自分自身と出会ったことがないのではないか、という問い掛けをしていました。

しかし一瞬一瞬に変化する自分の心・行動のどれが本来の自分か、などはそう簡単にわかるわけがありません。あるときは突然慈悲心をおこし蜘蛛の巣に繫った蝶を助け、あるときは大災害の凄惨な被災者の映像をみつつ平気で肉食するような日常生活を送っているのですから。
こういう愚かな衆生を親鸞上人はごらんになり、「愚禿鈔」では 「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。」とあり、「愚禿悲歎述懐」には「無慚無愧のこの身にて、まことのこころは なかれども、弥陀の回向の 御名なれば、功徳は十方に みちたまふ」とおっしゃっています。・・・続
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