福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「アナと雪の女王」から・・・その2

2014-07-25 | 法話
昨日は「アナと雪の女王」の「ありのままの自分」がいかに捕まえにくく、いい加減なものであるかということを述べました。自己とは何者か・・これについて、古来よりあらゆる高僧は説いて止みませんでした。
明恵上人は「あるべきやうは」とおっしゃり、人として「あるべきよう」を追求せよと、おしえられ、禅宗でも自己とは何かが大問題でした。西村恵信『己事究明の思想と方法』では、「禅は端的に己事究明である。この場合、自己が特に「己事」といわれている点に、自己把握における禅固有の意味を見ることができるであろう。そこでは「己事」ということによって、自己の存在と自己の本質が、同時的に言い表わされているからである。」としています。これを沢木興道老師は「坐禅は、自分が自分を自分することである。」といわれています。道元禅師も「正法眼蔵(現成公案)」で、「・・・佛道をならふといふは、自己をならふ也。・・」とおしゃっています。密教では大日経住心品に有名な「祕密主、云何が菩提とならば、謂く實の如く自心を知るなり。」という句がでてきます。「自己・自心を知る」ということがいかに根源的なことかがわかります。
しかし、凡夫がいくら「自己・自心を知る」「己事究明」といってみても、昨日記したように、貪瞋痴に纏わりつかれて身動きできない愚かな自己が見えるだけです。
しかしそれだけでいいのでしょうか。
親鸞聖人は法然上人から直接「愚者になりて往生す」と聞かされています。再度昨日の「愚禿悲歎述懐」をあげれば、ここには「無慚無愧のこの身にて、まことのこころは なかれども、弥陀の回向の 御名なれば、功徳は十方に みちたまふ」とあり、愚者の自覚に徹することで阿弥陀様の救いにあずかれるといっているのです。「仏道と自己」の関係でいえば、道元禅師は「正法眼蔵(現成公案)」で、「・・自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。・・佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして 落せしむるなり。・・」とおしゃっています。ここでも「萬法に證せられる」とでてきます。
「世俗的自己」に囚われなくなったとき、本当の『自己』になれるということかもしれません。
栄西禅師は「興禅護国論」で「大いなる哉、心や。・・大千沙界は究むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出ず。・・」とおっしゃり、心が宇宙すべてを飲み込んでいると云いました。道元禅師は、「悉有は即仏性である(すべては仏である)」と喝破されました。
そもそも、聖徳太子はすでに勝蔓義疏で「一切衆生に皆真実の性あり。・・如来蔵は是法界蔵なり、」といっておられ、大乗仏教の「心・仏・衆生是三無差別(華厳経巻十夜摩天宮菩薩説偈品)」を説いておられたのです。大師は十住論で「奇中の奇、絶中の絶なるは、それただ自心の佛か」と説いておられ、「自己とは仏なり」といっておられます。

理論的にはこのように、自分、他者、仏様は同じであるということを知っていてもこれを現実生活にあてはめると心もとない限りです。昨日述べたように理論は分りつつ愚かな日々を送っているのです。
そこで、最近では「自己とは、他者との関係でのみ意味を有するのである」ととりあえずおもっています。自分だけでは生きられませんので他者との関係性のなかで逆に自分が意味を持つということでしょうか。

これを端的に示した言葉が「衆生無辺誓願度」です。鈴木大拙も「衆生無辺誓願度」が特に仏教徒の究極の「夢」であると、西田幾太郎にあてた手紙(1901、1、21)で書いています。「自分は近頃、「衆生無辺誓願度」のことがわかってきたように思う。大乗仏教がこの「衆生無辺誓願度」を四句誓願の最初に掲げているのは、人類が生存していく為の究極の目的を示していると思う。無辺の衆生を救うことができなければこの人生半銭の値打もないのである。・・本当の安心は衆生無辺誓願度をねがうところにのみある。この「夢(衆生無辺誓願度)」を離れて外に個人が安心できることはないのである。・・自分はじめて四句誓願を聞いたときは「煩悩無尽誓願断」が第一に来てその次に「衆生無辺誓願度」が来るのが当然と思ったが、今にして考えれば大いに間違いであった、「衆生無辺誓願度」のために「煩悩無尽誓願断」であり、もし第一の「衆生無辺誓願度」の願がなければ煩悩は何の為に断ずる必要があろうか。いや煩悩を断じ得るのは実に「衆生無辺誓願度」という願い(夢)があるからである・・・」
(原文・・予は近頃「衆生無辺誓願度」の旨を少しく味ひ得るやうに思ふ、一句を四誓願の劈頭にかかげたるは、直に人類生存の究竟目的を示す、げに無辺の衆生を教ふべきなくんば、この一生何の半文銭にか値ひすとせん、・・・真誠の安心は衆生無辺誓願度に安心するにあり、これを離れて外に個人の安心なるものあることなし、・・予は始めて四句の願を聞きしとき、「煩悩無尽誓願断」が第一に来てその次に「衆生・・」が来るのが当然と思いなりき、今にして之を考ふれば予は大いに誤まれり、「衆生無辺誓願度」のために「煩悩無尽誓願断」なり、もし第一願なくば煩悩何が為に断ずる必要あらん、否、煩悩を断じ得る最条件は実に度衆生の願にあり、・・・)といいました。

 全く自分も最近そう思うようになりました。それ以上に行の時、外出の時など心の中で「衆生無辺誓願度」と唱えつつ歩くことにしています。その効果は抜群で、あらゆる妄想が吹き飛びます。色々な行も極めてスムースに進みます。

考えるとお大師様も「衆生尽き、虚空尽き、涅槃尽きなば我が願いも尽きなん」とおっしゃって奥の院に入定されていたのでした。

自分もこの「衆生無辺誓願度」との関係においてのみ「自己」が意味を持ってくると思うこのごろです。あえていえば「自己とは、『衆生無辺誓願度』である」とでもいうところでしょうか。

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