福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・・その102

2019-01-10 | 四国八十八所の霊験
今までに書きもらしたお蔭の追加談を書きます。



浅井證善師「へんろ功徳記と巡拝習俗」にある真念「四国徧禮功徳記」より四国遍路の功徳をすこし紹介します。「第一話、土佐の仁井田庄に弥助という人がいた。貞享年間一六八四~一六八八ある日妻が布を織っていた時遍路の僧がやってきた。妻はほどこすものがなかったので織りかけの布を切って施した。それたらはその布はいくら切っても尽きることがなかった。」「第二話、へんろの功徳により口がきける様になった話。紀州高野山の領地に善三郎という吃音者がいた。・・あるとき思い立ってお大師様に祈り遍路を始めたところ三日目に物を言うことができた」「第四話、阿波の海部に母川という川がある。この川は大旱の時我が子にやる水を遍禮の僧に喜捨したところその僧が感謝して五鈷で地を加持して清き流れができたこれが母川である。」「第五話、勘七の妻の病が治癒した話。紀州伊都郡東家村の中島理右門、太郎右衛門はじめ同じ村の同行八人は貞享二年1685の夏に四国徧禮したが焼山寺下で勘七という者(妻が病気で寝たきり)の善根宿に泊てもらいお礼に焼山寺でこの妻の為に祈って勘七の家へかえると病気だたった妻はた快癒していた。・・・」


 西端さかえ「四国遍路記」によると愛媛県温泉町川内町i氏は娘さんがノイローゼで服毒自殺を図り医者に手遅れと言われた時、四国遍路の納経帳を娘の額の上にのせ般若心経を一心にあげると娘さんの顔に生気が甦り助かったということです。

 
 杉浦詩奈「お遍路の奇跡」(東方出版2004年)には長期間強度のうつ病で苦しんでいた主婦が平成元年四国遍路に出て全快、平成三年には先達にまでなったと書かれています。

「四国八十八所霊験記(昭和五十九年・四国八十八所霊場会発行)」にある霊験を以下に紹介します。
・交通事故で言語障害をおこしていたた鈴置夫人が四国遍路で常人の如く話ができるようになった。(「弘法大師讃仰・池田某」)
・十六歳で肺病となり当時は不治の病とされていたため、どうせなら四国で死のうと考え四国遍路に出た。はだしで歩き一か寺で2時間余読経した。読経中は周囲の人の声は一切耳に入らない位集中した。一回目は順打、二回目は逆打で回り、38番金剛福寺通夜道で病気が治った夢を見た。その時は肋膜や腹膜の膨れがすっかり小さくなっていた。その後二回目を廻り終えてすっかり健康になり自宅へ帰れた。すでに二十歳になっていた。周囲の人たちが集まってきて祈祷してほしいというが、信仰は自分でするものと断っている。(大先達某の聞き書き)
・我が子が脳性小児マヒとわかり知多新四国巡拝・高野奥の院の十日のお籠り等の後、昭和三十八年三月に小児マヒの子と親夫婦で四国へ出発した。それ以来毎年四国巡礼をし高野山にもお参りしていた。するとこのいままで自分で一切動けなかった小児マヒの青年は自分でタイプ印刷所をはじめ、そのうち支援にきていた素晴らしい女性と結婚してしまった。昭和五十九年の中日新聞には「障碍者の印刷屋さん、一宮の舟橋一男さん、年賀状の注文殺到・瑞枝夫人と二人三脚・・」と紹介されるまでになった。そしてこの夫人は四国遍路で何度も訪れた愛媛県の出身者であった。(「地獄の中で必死にになってたたけば極楽への扉が開かれた。権先達F」)
・四国遍路で、同行の老婆を長年苦しめてきた膀胱の大石が七十七番道隆寺のトイレで突然取れた。みると中指の半分以上もある大石であった。(O・豊山派信徒総代)
・三十三歳で交通事故で半身不随となり死を決意して四国遍路に出た。横峰寺参道で体全体に電流のような感覚が走り、それまで曲がらなかった首・左半身・左腕が突然曲がるようになり事故以前の体に戻った。以来仏門に入り昭和五十四年大師堂が建立でき蛇円山真光寺が誕生した。(蛇円山真光寺渕上真光)
・四国遍路で六番安楽寺に泊まった時、四〇歳くらいの言語障害の人がいて老僧の法話中にも喘息で法話が聞き取れなかったくらい咳き込んだが、安楽寺の老僧に加持をしていただき以来完治して八八所を巡拝できた。(大先達O)。
・二〇年間一緒に四国を廻っていた家内が高血圧で倒れ意識不明・半身不随となり余命十日と診断された。このうえはお大師様にお縋りするほかないと考え、四国を逆うちで巡拝した時、六十番横峰寺で持参していた家内の数珠をかざし一心に心経を唱え、南無大師遍照金剛と唱えたとき、ガツンとショックを受けた気がしてそのときにお大師様のお姿を暗闇に拝した気がした。思えば最初から回り始めて二十一回目だった。帰宅すると余命十日と診断された妻は食卓で座しておかゆを食べていた。聞くと丁度自分が六十番焼山寺でお大師様を拝していた時、治ったという。それ以来五年後の今も家内は元気でいる。御大師様のお陰を頂いたのである。(大先達、Y)
・主人の家は代々真言宗でしたが祖父の代から神道に宗旨替えをしました。そのためか先祖の苦しみが我々に降りかかるようになり家族でお四国参りに出かけるようになりました。何回かまわっているうちに不治の病といわれた息子の病気もよくなりました。昭和44年の春、61番香園寺で朝3時半ころ我が子の結婚や入試のことを子安大師様にお願いしていると「おぎゃ^おぎゃー」という声が聞こえ子安大師様の目から涙が流れています。それを見て金縛りにあったまま自分に流産の水子がいたこと等を思い出しました。四国遍路でも水子霊のことをすっかり忘れていたのでした。このことをお大師様が教えてくださったのだと気が付き懸命に般若心経をお唱えすると、「おっこん、おっこん」という赤ちゃんの声が聞こえ子安大師様の抱えておられる赤ちゃんが足をバタバタさせながらお大師様の御顔を撫でているではありませんか。その後の札所は水子の供養もしながら回ることができました。自宅でも神道からもとの真言宗に戻して先祖供養をしっかりとやっています。皆さまも改宗のおそろしさを心に止めておいてください。(大先達、N)
・昭和48年3月22日、四国遍路に出た。1番霊山寺に泊まった時、数か月前から出来ていた手首の大きな骨の突起が消滅しているのに気が付いた。(、先達・N)
・曾祖父は病気で盲目となった、医者からも不治の病と診断されていた。しかし真言宗の寺で21日間断食してお大師様に祈願した結果、21日目の満願の日に目が明いた。その後御礼の為本四国を歩いて3回回り、高野山まで28キロを毎月21日に10年間あるいてお参りした。曽祖父はその後は老眼にもならず無病で88歳まで生き、お大師様の日に笑みを湛えてぽっくりと逝った。自分も21歳の時、脚気から腎臓病・肺湿潤に罹り寝たきりになり」医者に匙を投げられていた。そのとき5月21日、見知らぬ旅僧が巡礼姿で自宅にあらわれ「この病は7日で治してやる。自分は四国霊場某寺の田淵清光というものである。」といい七日間お大師様を祀ってある仏壇のまえで朝夕、加持と灸をしてくれた。その結果七日目にはすっかり回復全快した。御礼に四国88所を遍路したが件の寺で、田淵という僧侶の方を聞いても実在しないことが分かった。きっとそのお方はお大師様に違いないと確信した。・・(先達・T

・Tちゃんは1歳にもならない時、カミソリを掴んで大出血した。大学病院で7時間の大手術をしたが手の甲は反り返ったままで握ることは出来なくなってしまった。祖父母の十河さん夫婦は信仰心の篤い夫婦で千圭子ちゃんが2歳半の時四国遍路に連れて行った。Tちゃんはもみじの様な手で札所の御本尊様・御大師様・お地蔵様などおまつりしているすべての祠にお参りしていった。そうしてお四国を廻っているうちに千圭子ちゃんのそれまで握れなかった手が握れるようになった。いまは小学生になったTちゃんは学級委員になりクラスのいじめられっ子を助けて感謝の手紙をもらっている。(権先達・T)
・私はスモン病にかかかり寝たきりとなった。或る夜お大師様の夢を見た。御大師様は「私が連れて行くから、3年間お四国を巡拝せよ」と告げられた。主人に背負われてお四国へいったが不思議とそれまで立てなかった足が杖を持つと立てた。そうして毎年3年間四国遍路をしたが3年目の遍路が終わって帰宅した時、御不動様を感得した。お不動様は「おまえの足は元のようにはならぬが自分の身の回りのことはできるようにしてやる」とおしゃった。そのとおりに自分のことは自分でできるようになった。御恩返しに敦賀巡拝団をつくり四国遍路をさせていただいている。(先達・S)

・昭和13年徴兵された。石手寺で「無事帰郷させていただいたらお四国をまわります」と祈願して出兵した。一回目はノモンハンに出撃直前に停戦になり、二回目はパラオからニューギニヤへいくことになっていたが病気になり除隊して帰郷した。三回目の招集は昭和20年1月で奉天経由で上海に到着し沖縄に出撃することになっていたがその前に終戦となった。引き上げ後、食糧事情がきびしくお礼参りができなかったが昭和30年5月78歳の母を連れてお礼の遍路をした。その後お四国を25回廻った。(大先達・N






私の頂いた霊験も再度書いておきます。
1、毎年入退院を繰り返していた縁者の重度うつ病が治り家族ともども幸せな家庭生活を送っていること。
2、半年もたないといわれていた縁者の末期がんが治り海外旅行にまでいったこと。
3、遍路の途中で深い草むらに落とした時計を一ツ橋の学生が拾って焼山寺まで届けにきてくれて遍路を続けられることになったこと。
4、血圧が25も下がる等健康体になったこと
5、身内が望みどおりの就職ができたこと。
6、最後に一番有難いことがありますがここにはとても勿体無くて賭けません。
7、その後も数え切れないほどのしかも深いお蔭をこれでもかこれでもかといただいております。ほとんどのことが叶えられましたし不思議なご縁が次々と起こりました。いまも興っています。あまりに有難く件数も多いのでとてもここに書くことは出来ません。










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