五戒と十善戒と戒の体系です。
結論を先に言うと、通常は五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)とは在家戒であるとされています。しかし五戒のうち不邪淫戒を不淫戒にしたものは出家戒とされます。(古来不飲酒戒については比丘比丘尼戒の中でも他の「殺」、「盗」、「淫」、「妄」、と異なり軽罪とされてきています。飲み過ぎなければいいという説もあります。なお中国ではこれらを五常に配し不殺を「仁」に、不盗を「智」に、不邪淫を「義」に、不妄語を「信」に、不飲酒を「禮」にあてた説がおこなわれるようになったといいますが密教では不飲酒を不邪見にかえています。)
一方、十善戒(不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不綺語 不悪口 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見) は出家在家の通戒(菩薩戒)とされています。高野山の大師教会では毎日「十善戒」のお授けがなされており誰でも受けることができます。福聚講の何名かも大師教会で十善戒を授けられています。また高野山の結縁灌頂の最初にも授かります。
お大師さまは「み仏の戒めを守ることによって、人の体は潤いあるものになる。それはあたかも諸天の飲み物といわれる甘露を飲むことによって、身にまとわりついた病が除かれるようなものである」とお諭しになっています。
慈雲尊者も「人の人たる道はこの十善にあるじゃ。経の中に此の道を失えば、鳥獣にも異ならず。木頭(もくず)にも異ならずとあるじゃ。阿含経、正法念処経、婆沙論、成実論等。大般若経、梵網経、瑜伽論、智度論等諸々の大小乗経典の通説じゃ。」「華厳経十地品離垢地の法門にはこの十善がただちに菩薩の戒波羅蜜の行じゃ。大日経方便学処品にはこの十善が直ちに真言行菩薩の学処じゃ。」とあり、出家在家通じてあらゆる戒律の根本がこの十善戒でありこれを守るとその功徳は計り知れないほど大きいとされています。
2、戒の体系
諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教 (しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう。意味は「諸々の悪しきことをせず、もろもろの善いことを実行しなさい。そして、自ずからその意(こころ)を浄めていくこと。これが諸佛の教えである。」 )これは、「七仏通誡(しちぶつつうかい)偈(げ)」といわれるものです。七仏とは過去七仏と云われる毘婆尸仏(びばしぶつ)・尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・拘留孫仏(くるそんぶつ)・拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)・迦葉仏(かしょうぶつ)・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のことです。この過去七仏が説いたという意味で「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)」というのです。これが古いといえば古い戒といえると思います。
戒にはいろいろなものがあります。戒を大乗仏教の立場で体系化すると
○1摂律儀戒(身を治めるための戒。在家戒としての五戒。八斎戒(特定の日だけに僧の戒を俗人が守るもの)。出家するときの沙弥戒(不殺生、不偸盗、不婬泆,不妄語、不飲酒、不塗飾香鬘、不歌舞観聴、不座高床大床、不非時食、不蓄金銀宝)。具足戒としての二百五十戒、三百四十八戒。など)
○2摂善法戒(善を勧める戒、通戒としての十善戒など)
○3摂衆生戒(利他行としての戒、十善戒はここにもはいる。)となります。
またお大師様は顕戒と密戒をわけ「顕戒とは三帰八戒五戒及び声聞、菩薩等の戒なり、密戒とはいわく三昧耶戒なり」とされています。
3、密教の戒
密教はすべての戒を尊重することになっていますが密教には究極の戒として先に述べたように「三昧耶戒」があります。結縁灌頂等の灌頂ではこの三昧耶戒を授かることになっています。印を結び「おん さんまや さとばん(我は仏と一体なり)」と唱えるのはこれです。
お大師様は「三昧耶戒序」で「今授くるところの三昧耶佛戒とはすなわちこれ大毘盧遮那自性法身の所説の真言曼荼羅経の戒なり。もし善男子善女人比丘比丘尼清信男女等あってこの乗に入って修行せんと欲わんものは先ず四種の心をおこすべし。一には信心、二には大悲心、三には勝義心、四には大菩提心なり」(三昧耶佛戒とはすなわち大日如来直授の戒であり僧侶も在家も密教者としていきるものはすべてもたなければならないものである。これらは一、正しい信仰にまい進する心、二、他者の苦を抜きたいとする心、三、他を助けるため最も高い教えによろうとする心、四、大いなる悟りを求める心、である。)とされています。
結論を先に言うと、通常は五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)とは在家戒であるとされています。しかし五戒のうち不邪淫戒を不淫戒にしたものは出家戒とされます。(古来不飲酒戒については比丘比丘尼戒の中でも他の「殺」、「盗」、「淫」、「妄」、と異なり軽罪とされてきています。飲み過ぎなければいいという説もあります。なお中国ではこれらを五常に配し不殺を「仁」に、不盗を「智」に、不邪淫を「義」に、不妄語を「信」に、不飲酒を「禮」にあてた説がおこなわれるようになったといいますが密教では不飲酒を不邪見にかえています。)
一方、十善戒(不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不綺語 不悪口 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見) は出家在家の通戒(菩薩戒)とされています。高野山の大師教会では毎日「十善戒」のお授けがなされており誰でも受けることができます。福聚講の何名かも大師教会で十善戒を授けられています。また高野山の結縁灌頂の最初にも授かります。
お大師さまは「み仏の戒めを守ることによって、人の体は潤いあるものになる。それはあたかも諸天の飲み物といわれる甘露を飲むことによって、身にまとわりついた病が除かれるようなものである」とお諭しになっています。
慈雲尊者も「人の人たる道はこの十善にあるじゃ。経の中に此の道を失えば、鳥獣にも異ならず。木頭(もくず)にも異ならずとあるじゃ。阿含経、正法念処経、婆沙論、成実論等。大般若経、梵網経、瑜伽論、智度論等諸々の大小乗経典の通説じゃ。」「華厳経十地品離垢地の法門にはこの十善がただちに菩薩の戒波羅蜜の行じゃ。大日経方便学処品にはこの十善が直ちに真言行菩薩の学処じゃ。」とあり、出家在家通じてあらゆる戒律の根本がこの十善戒でありこれを守るとその功徳は計り知れないほど大きいとされています。
2、戒の体系
諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教 (しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう。意味は「諸々の悪しきことをせず、もろもろの善いことを実行しなさい。そして、自ずからその意(こころ)を浄めていくこと。これが諸佛の教えである。」 )これは、「七仏通誡(しちぶつつうかい)偈(げ)」といわれるものです。七仏とは過去七仏と云われる毘婆尸仏(びばしぶつ)・尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・拘留孫仏(くるそんぶつ)・拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)・迦葉仏(かしょうぶつ)・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のことです。この過去七仏が説いたという意味で「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)」というのです。これが古いといえば古い戒といえると思います。
戒にはいろいろなものがあります。戒を大乗仏教の立場で体系化すると
○1摂律儀戒(身を治めるための戒。在家戒としての五戒。八斎戒(特定の日だけに僧の戒を俗人が守るもの)。出家するときの沙弥戒(不殺生、不偸盗、不婬泆,不妄語、不飲酒、不塗飾香鬘、不歌舞観聴、不座高床大床、不非時食、不蓄金銀宝)。具足戒としての二百五十戒、三百四十八戒。など)
○2摂善法戒(善を勧める戒、通戒としての十善戒など)
○3摂衆生戒(利他行としての戒、十善戒はここにもはいる。)となります。
またお大師様は顕戒と密戒をわけ「顕戒とは三帰八戒五戒及び声聞、菩薩等の戒なり、密戒とはいわく三昧耶戒なり」とされています。
3、密教の戒
密教はすべての戒を尊重することになっていますが密教には究極の戒として先に述べたように「三昧耶戒」があります。結縁灌頂等の灌頂ではこの三昧耶戒を授かることになっています。印を結び「おん さんまや さとばん(我は仏と一体なり)」と唱えるのはこれです。
お大師様は「三昧耶戒序」で「今授くるところの三昧耶佛戒とはすなわちこれ大毘盧遮那自性法身の所説の真言曼荼羅経の戒なり。もし善男子善女人比丘比丘尼清信男女等あってこの乗に入って修行せんと欲わんものは先ず四種の心をおこすべし。一には信心、二には大悲心、三には勝義心、四には大菩提心なり」(三昧耶佛戒とはすなわち大日如来直授の戒であり僧侶も在家も密教者としていきるものはすべてもたなければならないものである。これらは一、正しい信仰にまい進する心、二、他者の苦を抜きたいとする心、三、他を助けるため最も高い教えによろうとする心、四、大いなる悟りを求める心、である。)とされています。
早速ご丁寧なご説明ありがとうございました。五戒にあり十善戒にないお酒が気になっていたのですが、軽罪ですか。また密教では不飲酒を不邪見に代えているのですね。よく分かりました。