福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観音霊験記真鈔8/33

2024-04-08 | 諸経

観音霊験記真鈔8/33

西國七番和州岡寺如意輪像。 御長丈六也。亦龍蓋寺と號す。

釋して云く、西國一番目に於いて如意輪の像の義を荒増し講ずと雖も未だ盡ず。爰に於いては如意輪の輪の字の義を解すべし。先ず輪とは釈迦如来八相(下天・入胎・誕生・出家・降魔・成道・転法輪・涅槃)の中に於いても轉法輪と云ふの義あり。其の法輪と同じ。謂くこの輪に付ひて摧破と展轉との二義ある時、先ず摧破の義とは、今大悲の像を称念すれば衆生の悪業煩悩を摧破して佛果に至らしむるが是法輪の義なり。次に展轉の義とは、施主ある故に財あり、財ある故に受者あり。今施主なきと観ずれば三輪の想を忘るなり。施主と財と受者と展轉する義なり。委しく知んと欲せば百法抄七巻に明かすが如し。又粱の摂論に曰、神通輪謂く身通なり。天眼通・天耳通・此の輪を以て邪に向ふ者を引て其をして正に帰せしめんが為なり。二に記心論謂く、侘心通・天眼通・天耳通。此の輪を以て己を引て正に帰する者の為なりと云々。三には正教輪、謂く宿住通・漏盡通、宿住通に由りて其の根性を識る。

漏盡通に由って自の所得の如く爲に正教を説く。種を下すことを得て解脱を成就せしむる也已上(攝大乘論釋・差別章第七「利他即是三輪。一神通輪。謂身通天眼通天耳通。此輪爲引向邪者令其歸正。二記心輪。謂他心通天眼通天耳通。此輪爲引已歸正者。若未信受令其信受。三正教輪。謂宿住通漏盡通。由宿住通識其根性。由漏盡通如自所得爲説正教。令得下種成就解脱。由具此義故説定有三品」)

筆削記に云く、楞伽経に曰、大慧如来蔵とは輪轉苦楽の因也已上(起信論疏筆削記卷第八「楞伽下引證。經云。大慧如來藏者。輪轉苦樂因也。亂意慧愚癡凡夫所不能覺。」)。

玉篇(中国南北朝時代の南朝梁の顧野王によって編纂された部首別漢字字典。字書としては『説文解字』『字林』の次に古い)に云う、輪は車の輪也。無門関に云、月庵和尚僧に問、奚仲は車を造ること一百輻。両頭を拈却し、軸を去却す。甚麼邊の事か明らむ。無門曰く、若也(もしまた)直下に明らめ得ば、眼は流星に似たり、機は掣電の如し。

頌に曰く、機輪転ずる処、達者も猶迷ふ。四維上下、南北東西。已上。(無門関第八 奚仲造車 ‐月庵の造車。月庵和尚、僧に問う、「奚仲は車を造ること一百輻。両頭を拈却し、軸を去却す。甚麼邊の事か明らむ」無門曰く、「若也直下に明らめ得ば、眼は流星に似、機は掣電の如くならん」頌に曰く、機輪転ずる処、達者も猶お迷う。四維上下、南北東西。)

私に云く、當則は道體なり。しぶる處をけつ゛り落とし、けつ゛り落とししてそつとも滞らず、繫留無きところを見也呈にこそ甚邊事を明らめん明らめんて置たぞ。終に肯ふ承當が出ぬ也。染汚が車輪の障り也。畢竟圓な境界なり。此の時どつちへ轉ずべきとも自由三昧なり。已上。講者前の如意輪に引き合わせて見るべし。

西國七番和州岡寺の丈六の如意輪大悲の像は弘法大師の開基なり。其の由は大師渡唐の請益に當玉ひて云く、吾入唐してつ恙なく歸朝せんことを如意輪観音に祈り玉ふ故に、其の宿願の為に如意輪の像を造らんと欲す。しかる處に和州高市郡或山靄(あひ)に當りて放光瑞あり。怪しみ尋ね上って見れば別事なく唯大地より光を放つ。其の土光より如意輪の呪を誦す。呪とは「おんはんどま じんだまに しゃらうん (梵字)」。如是の呪を誦すること止まず。大師思へらく、吾此に於いて有縁の地なりと云て土塊を取りて渡唐の祈願に丈六大悲の像を造立し玉ふに、夫より入唐し玉ふに船中の悪風、亦唐朝に於いて若し災難来んと欲する時に、如意輪を念じ玉ふに此の如意輪の像出現し玉ひて、大師を守護し其の難を救ひ玉ふ也。帰朝の後、此の像御信仰浅からず。故に感應日を追って在す。故に西國第七番目に安坐し玉ふと也。歌に

「今朝見れば 露岡寺の 庭の苔 さながら瑠璃の光り成りけ梟」

私に云、歌の上句は「露」と云はん詞の縁に、「今朝」といひかけたり。「露岡寺」とは露おくといふ枕詞也。「庭の苔」これまた露おくといふ縁なり。歌の下の句は、此の岡寺の地形は譬て言はば浄土の瑠璃の地の如くといへる意を含めり。瑠璃に上の句の露といへるは其の縁の字なるべし。前の六番目の歌の注にいへるごとく、極楽浄土は瑠璃等を以て地形とすること無量壽經等に委しく説けり。今繁文を恐れて之を略す。爰には七寶の中の一つを挙げて尒云也。所詮此の岡寺に参るより見れば寺の風景、露の草場に置くまでも殊勝なる粧ひはさながら西方浄土の如く思れ、又南方観音の浄刹かと疑ははるる也と、頻りに感を催す。風情至りて知るべし。又云、信心徹到して三昧を成就すれば、上代の韋提希夫人等の如く、坐ながら極楽の荘厳を観見する等。又云、螺髻梵王は娑婆世界を微妙清浄土と見るが如等。已上観經また智度論の説也。(維摩詰所説經佛國品第一 「爾時螺髻梵王語舍利弗。勿作是意。謂此佛土以爲不淨。所以者何。我見釋迦牟尼佛土清淨。譬如自在天宮。舍利弗言。我見此土。丘陵坑坎荊蕀沙礫。土石諸山穢惡充滿。螺髻梵言。仁者心有高下。不依佛慧故。見此土爲不淨耳。舍利弗。菩薩於一切衆生。悉皆平等。深心清淨。依佛智慧則能見此佛土清淨。於是佛以足指按地。即時三千大千世界若干百千珍寶嚴飾。譬如寶莊嚴佛無量功徳寶莊嚴土。一切大衆歎未曾有。而皆自見坐寶蓮華」。)今の歌のさながら浄土と云義に合すべし。或人の歌に(蓮如上人か?

「瑠璃の木に こがね花咲く 極楽の 南無阿弥陀佛は主(あるじ)なりけり」

又善光寺如来の御歌とて

「しをりせで 深山の奥の花を見よ 尋ね入りては同じ香(にほひ)ぞ」已上。

西國の歌に引き合わすべし。

(観音霊験記真鈔巻の一終)

 

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