西晋一郎「易・近思録講義」
「乾坤を父母と称すといふが、それには意味があることで、元来天地が生みの父母で、天地がなければ生まれない。父母といふ個人が生む力をもってゐるのではない。天地の力を受けて生む。
我は天地の大なるに比ぶれば五尺の身体、実にあるかなきかの藐漠として目に見えないくらいのものである。乃ち混然として中に処れり。混然は混合するのではない。渾然で、天地の間にあって無間、ピッタリ天地に渾然として人間というものが処る。
天地と渾然として一つになっている。我が一身は藐たるものであるが、天地と寸分の隔たりもなく処る。
天地と我は隔たりがないから、天地の間に充満せる気が我が体である。我は天地の気そのものである。それば即ち我が体である。天地の大にくらぶれば目に見えないほどの小さいものであるが、元来天地と一つのもので、天地と区別していふのではない。
我が身は天地一杯のものである。天地の帥、気を率いるもの、すなわち天地の性そのままである。
天地の心を受けて我が性としたものである。天地の心を受けて我が性としたものである。我々の由来を尋ねるとこふいうものである。天地の心を受けて我が性としたもの、これが根本である。
天地の大気を呼吸して生きておる。暫く薄皮で限りをつけて居るが、天地と呼吸を等しくしておる。
心といふものも自分でこしらえたものではない。また我の儘になるものでもない。
心にも自ら性があって天からうけたものである。・・・」
「乾坤を父母と称すといふが、それには意味があることで、元来天地が生みの父母で、天地がなければ生まれない。父母といふ個人が生む力をもってゐるのではない。天地の力を受けて生む。
我は天地の大なるに比ぶれば五尺の身体、実にあるかなきかの藐漠として目に見えないくらいのものである。乃ち混然として中に処れり。混然は混合するのではない。渾然で、天地の間にあって無間、ピッタリ天地に渾然として人間というものが処る。
天地と渾然として一つになっている。我が一身は藐たるものであるが、天地と寸分の隔たりもなく処る。
天地と我は隔たりがないから、天地の間に充満せる気が我が体である。我は天地の気そのものである。それば即ち我が体である。天地の大にくらぶれば目に見えないほどの小さいものであるが、元来天地と一つのもので、天地と区別していふのではない。
我が身は天地一杯のものである。天地の帥、気を率いるもの、すなわち天地の性そのままである。
天地の心を受けて我が性としたものである。天地の心を受けて我が性としたものである。我々の由来を尋ねるとこふいうものである。天地の心を受けて我が性としたもの、これが根本である。
天地の大気を呼吸して生きておる。暫く薄皮で限りをつけて居るが、天地と呼吸を等しくしておる。
心といふものも自分でこしらえたものではない。また我の儘になるものでもない。
心にも自ら性があって天からうけたものである。・・・」