福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

十善戒和讃略解(慈雲尊者・釋雲照)、18

2020-02-18 | 十善戒

世を乱し身を亡すも 皆一朝のいかりなり。一切男女は過去の父母、一子の慈悲を運ぶべし」
我等衆生無始劫より以来三界の苦海に沈淪して常に生老病死の為にせめらるるは、もと此貪瞋二種の所為に由らざるはなし。此貪瞋の煩悩は諸の愚痴邪見の煩悩による。愚痴邪見の煩悩は何によって起こるかとなれば、宇宙の真理を知らざるによる。宇宙の真理は如何なる形かと謂うに所謂、無我・無自性にして衆の因縁の仮和合によりて成立するものにして一法として自然独立なるものなし。
 然るに我等此無我・無自性の萬物に向かって我有我名(自分のものだ)の固執を成し、為に我見我慢の煩悩を起して止むことなし。
経には「刹那に作るところの罪、無間に堕す(注1)」と誡めたまへり。梵網経には「一切の男子はこれ我が父、一切の女子は是れ我が母なり。我生々に之に従って生を受けずといふことなし。故に六道の衆生は皆これ我が父母なり。」と説示したまへり。
誠に惟れば一切衆生は無始より以来三界六道に輪転して親となり子となり夫となり嫁となりて其の関係する所実に広大なり。故に今日飼うところの犬猫牛馬等是我が前世の父母なるや(注2)。また我が子弟たるや、我また彼が妻夫子、奴僕なりしや、と 若し能く深くこの理を領会して日夜面前に対する男女は皆是我が生生世世の父母なることを憶いて努めて慈心を行じ自ら十善道に随順せしむべきなり。

注1、梵網経菩薩戒下に「故に経に云わく、小罪を軽んじて以って殃無しと為すこと勿かれ、水の滴りは微なりと雖も、漸く大器に盈ち、刹那の造罪の殃は無間に堕す、と。一たび人身を失わば万劫にも復せず。壮色の停らざることは猶し奔馬の如く、人命の無常なること山の水に過ぎたり。今日存すと雖も明にも保ち難し。衆等各各一心に勤修精進し、慎んで懈怠と懶惰睡眠とに意を縦にすること勿かれ。」とある。)

注2『古事談』には、仁海(平安時代の真言僧。小野流の祖)僧正の父が牛に転生した話が記されている。それによれば、父の死後、夢の中で父が牛になったことを知った仁海は、その牛を買い取って大切に飼っていた。ところが、その後、牛に仕事をさせないため父の罪が軽くならないという夢告があり、そのために、仁海はその牛を田舎へ遣わして時々仕事に使った。その牛の死後、父が畜生道を脱したという夢告を得たという。)





十善戒和讃全文「 帰命頂礼 十善戒、 十方三世の諸如来の三十二種の妙相もこの浄戒を種因とす。戒定智慧も三密も三十七の道品も身三口四と意三より 皆生じたる功徳なり。世間諸善の根本にて人の人たる道なれば、出家在家も持つ(たもつ)べく老若長幼奉ずべし 。龍樹菩薩の教誡に 仏果を期して戒なきは、渡りに船のなき如く 到るを得じと、のたまえり。昔、比丘あり、行く道に渇きに迫り水を得て、蟲の命をあわれみて 死して道果を得たりけり。また八才の少沙弥の、水の流れて蟻穴に入るを救いし功徳にて 夭死転じて長寿せり。また、毘舎伽母の指の輪の 落ちて入江に沈みしも、元の指端に還りたるためしは実にいなまれず。影勝王の像の子の産に臨みて悩みしを牧牛の女の操もて、誓いて分娩せしめたり。斑足王の猛悪も 実語のとくに感悟して、九十九余の命をも放ちて道に入りにけり、言辞弁舌明瞭に生まれし種(もと)は不綺語なり。時候和順に資産富み 草木さえ皆色ぞ増す。人天中に香はしきものは善語に過ぐるなし。妻子眷属和悦して上下人心、皆服す。主従和睦違わぬは 不両舌語の功徳なり。親好厚く和敬せば これぞ菩薩の心なる。足ることを知る人の身は 地上に臥すも浄土なり。 己をせめて施せよ、多欲は餓鬼の種因なり。世を乱し、身を滅ぼすは皆一朝のいかりなり。一切男女は過去の父母、とか一子の慈悲を運ぶべし。八正の道広けれど 邪見の人ぞ踏み迷う。己が顔貌智慧技量 皆善悪の影ぞかし。神も聖もみ仏も みなこの道に由りたもう。これぞ真実の道なれば この道撥無するなかれ。妻子珍宝及王位 死出の旅路の共ならず。唯この戒の功徳のみ 身に添う三世の友ぞかし。百歩の間持(たも)つすら 仏になるとのたまえば、萬行中の易行なり 唯 ひたすらに守るべし]
 

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