福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本、(岡本かの子)より・・・その16

2014-02-22 | 法話

第一六課 誤解された時


 純理より言うときは、世の中に誤解のないものはありません。どんな気心を知り合った人間同志の間柄でも、互いの性質が違い、年齢が違い、教養が違い、その時々の気分や頭の調子に変化のある以上、そう一つことを二人の人が全く同じように了解し合うということは不可能であります。この理わけを、すこし拡大して譬えによって述べて見ますと、向うに港を出帆して行く汽船があります。岸で二人の人が見ております。一人の人は船暈ふなよいする人ですが、一人の人は船に達者の人であります。そこで船に達者な人が「気持ちよさそうな船だ。乗って行きたい」と言ったところで、船暈する人がその気持ちに共鳴出来るわけはありません。互いの経験にもともと相違があるからであります。
 人間の概念かんがえで一番共通で確実なものは、「数」だとされています。故に精密な物理学の理論などは、専ら数学で表されるのであります。しかし、この「数」とても実際、世間で扱われる場合には、感じ方にいろいろ相違が出来て来るのであります。「ちょっと一円貸して下さい」と言う人にとっては、その一円は簡単手軽な一円であるかも知れませんが、この一円を、ざっと一週間分の電車往復賃の予算に見込んでいる人にとっては重大貴重な一円であります。そこで「なんだ一円ぐらい」「一円なんて、とてもとても」という押問答が起ります。これは互いの生活状態による「数」に対する見解の相違であります。
 これは、極端に現した二例であって、およそ普通の場合には、汽船なら汽船という概念かんがえがあり、一円には一円という概念があって人間の間に行き亘り、大掴みの感じの上で了解が取引されております。しかし、すこし精密に調べるとこういう誤解が見出されて来ること、上述のごとくであります。
 次に誤解について面白い原理は、この誤解があるによって、これを訂ただそうと正解が大いに発奮努力することでありまして、もし世の中に初めから正解ばかり行われていたら、世の中は一所停滞であります。文化の発達というものはありません。世の中には、ともすれば誤解が紛出しがちである。それを解き明し解き明しするところに真理の進歩があるのであります。
 周囲まわりのものは自分を認めぬ。これは周囲のものが自分の実力に対する誤解であります。婚約者が自分に冷淡である。これは婚約者が自分の愛に対しての誤解から来る。そこでこれを正解すべくいよいよ真心を傾ける。
 先輩が自分の事業に賛成してくれない。これは自分の事業の性質に対する先輩の誤解である。そこでいよいよ説明説伏に努力する。製品の売行があまりに不良わるい。これは製品の真価に対する誤解である。需要を高めるまで八方了解さす工夫を続ける。
 これら誤解に大体、二種類あります。一つは消極的のもので、一つは積極的のものです。消極的の誤解というのは、今まで正解であったものが、より正解なものが出て来たので、変って誤解となったものであります。例えば天動説のようなものであります。昔は地球がじっとしていて、天体が動くとするのが正解としていたのを、天文学の発達によって、天体も動くが地球も動くというのが正解となって来たので、前の正解がたちまち誤解となったようなものであります――もっとも近頃の新科学では、計り方の土台の置き方で、どっちとも言えるということになって来たようですが、まだ常識知識にはなっていませんから、一応、上のように述べて置きます――。もし、これを人間の上の例に取れば、一人の青年があって、郷里にいるときはとてもぐずであった。それで郷里の人がその青年をぐずぐずと呼んでいたのは正解であります。ところがその青年が東京に出てから、持ち前の性質のよいところを出して精励恪勤の紳士になりました。こうなったとき、もう前の郷里のぐずの名は誤解であります。より真理なるものが出たので前の正解、たちまち誤解に変ったわけです。
 消極的誤解の特色は、誰が見てもまたどこにもそれ以上の真理はないと思ったものが、後に、より真理なものが出て来たので、前のものが初めて誤解と判る点にあります。つまり不可抗力的誤解です。ところが積極的誤解となると、手を尽すか探すかすれば、正解に達し得られるものをいい加減にして置くか、感情に左右されて軽忽そそっかしくに実情を覆う誤解であります。真理はすでに厳然として在るのであります。ただ事情のために昧くらまされているだけであります。つまり可抗力的誤解です。その例は国際間の浮説、世上の噂、個人の周囲到るところに見出されます。
 不可抗力と思われる誤解さえ、人智の発達はこれを覆えして、正解を呼び起して行けることは文化史上の幾多の事実に徴しても明らかであります。まして可抗的誤解などに惑わされていてはなりません。私たちは真理に対する強い信頼の力を呼び起して、あらゆる誤解を掃蕩すべく励まねばなりません。これこそ人生の使命の一つであります。しかし、その掃蕩に当って心すべきことは、この章のはじめに述べましたように、誤解は人生の機構上、無尽に湧き起る性質を持っております。一を払えば一起り、尺を刈ればまた尺というふうに、遼々無限の荒野を行くようなものであります。この様子を、般若心経は実に要領よく道破しております。
(般若心経の)「無明もなく、また無明の尽ることもなく」、無明とは、人間の不明の心で、人世に誤解をなさしむる元であります。「無明もなく」というのでありますから、一応、不明の心を刈り取ったところであります。すると、その次に「また無明の尽ることもなく」と説き返してあります。けれども刈り取り尽せることもないと言うのであります。この誤解の刈り取り、また生え延びするところを人生の常として説明してあるのであります。それならどこに安心立命はあるか。そのような無限の鼬いたちごっこでは、結局疲労くたびれ儲けではないか。ちょっとそう思われます。しかし、そこにこの般若心経の偉大さがあるのです。この経の題名である般若というのは智慧ということでありますが、智慧を以て一度この人生の姿の実相を突き止める。するとなるほど刈り取り生え延びの繰返しの無限延長であることが解ります。それが人生の姿ならばそれでよろしい。それ以外に人生がないと判って見れば泣きも叫びもしない。傍目もふらずにその繰返しの無限延長に働きかかって行こう。相手が無限ならば、こっちも無限の力を出して、行く。無限に対するこの懸命いのちがけの働きそのものの上に、言い知れぬ悲壮な気持ちと、使命に殉じている安心光明が油然と胸中に湧くのであります。これは事実、体験的のもので、やらない人には判らないのであります。これを鼬ごっこの疲労くたびれ儲けと解して、岐道わきみちへ外それた人は退屈と不安があるばかりで、生涯、人生の味は解し得られないのであります。
 それから最後の人世の秘密として取ってある仕掛けは、その「刈り取り、生え延び」の人生行路コースは、一ひとところに停滞して繰返されるのでなく、一歩一歩に働く人を前へ進ましめて、事実何らかの意味で、向上発展の状態に移すのであります。ひそかにこの向上発展を人生行路の勇ましき実行者に褒美として与えるのであります。これも体験的のもので、どんな形で褒美が与えられるか、人々によって違うのであります。
 口では、いろいろに言いますものの、誰しも誤解された時くらい、世にも果はかない気持ちはありません。心の底から腐って、生きる力も張合いもなくなるのであります。しかし、そのときです。真に奮い立って起き上るのは。誤解がある故に、これを征服する力も引き出されるのだ。誤解が大きければ、これを征服する力も大きい。誤解され放しのままなら、ただの禍です。それに励まされて圧倒するほどの力が養えたら、誤解は却って育ての親です。是非とも私たちは逞しい持ち前の心を奮い起し、誤解に却ってお礼を言うようになりましょう。(「最大の復讐は感謝である」という言葉がありました。感謝できるくらいの立場、心境にならなければ相手に負けたままであるということでしょう。)
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