今日は七草粥です。また門松を外す日でもあります。
江戸時代には人日は五節句(人日(正月7日)、 上巳 (3月3日)、 端午(5月5日)、 七夕(7月7日)、 重陽(9月9日))の一つとして定められ、また七草粥の日でもあります。
生家の山寺では七草など寺の周りで五分もかからず集められました。懐かしい限りです。
「年中行事覚書」(柳田国男)では、五節句のうちの「人日」については江戸時代に定めたときも「七草の粥と九州の鬼火おにび以外にはあまり大きな行事はなかった」といっています。
「五節供という配置法は、少しばかり人為的に、程よく間隔を取ろうとした計画が現われている。地方で一般によく知られているのは、春は旧三月三日の雛の節供と、夏の五月の端午たんごの日であって、この二つだけにただセックといっても通用する程に、民間の言葉とよく一致している。九月の九日を節供という土地は、関西の方でも半分以内のもので、その他は九日くんちといったりまた別の名で呼ぶ処ところが多い。しかしこの三つならまず見当がつく。さて残りの二つはということになると、今でも確実に覚えている人ばかりはない。
七月七日はなるほどという者もあろうが、それが何故に祝賀の日になるかは、多少の説明を必要とした。盆は不幸のなかった家々では、以前もやはりおめでとうという日であり、普通にはこの日から十五日までの間に、親や目上の人の健在を祝する酒宴があった。それを数字が揃そろうので七月七日ということにきめたものと思われる。正月の七日に至っては、日の数を月と揃える法則にも合わず、年越の一つに算えられてはいるけれども、七草の粥と九州の鬼火おにび以外には、そう大きな行事はない。察するにこれは元日と十五日とには、一般に家々各自らの式が多いので、それに自由を与えようとした一種の譲歩であって、まあこの程度には討究した政策の現われなのである。
この五節供の日を制定するに先だって、幕府では各藩各領の実状を調べさせたところが、人日じんじつや七夕たなばたには地方毎の風習の差が甚はなはだしく、とても民間と歩調を合わせることが出来ないのを知って、結局は理論に拠よってこの五つの日を決したという話が伝わっている。うそかも知れないが外形は少なくともそうなっている。つまりよく考えて勝手にきめさえすれば、人民は付いて来るだろうと思ったのである。ところが必ずしも予測の如くならず、民間には別に独自の年中行事があって、衰えたりまた盛んになったりしながらも、なお今日までは続いている。これがこのさきどうなって行くかということは、政府や国会だけの力ではまだきめられない。
五節供の制定には、現実生活の要求を十分に参酌さんしゃくしなかった嫌いがある。それから今一つは年久しい慣行よりも、新たに入って来た外国の理論に、根拠をまず求めようとしたことが、ついに民風を新たにし得なかった原因かと思われる。もちろん私たちの行事とても、決して古代のままを伝えようとしていたのではなかった。中世以来の社会事情に動かされ、またはただ単なる流行によっても、よそでそうするならここでもと、気軽に改めた部分もないとは言えぬが、その保存にも改廃にも、ともかくも彼等の理由があった。歴史の学問がまだこの方面には進まないために、今まではそれを考えて見る道がなかったのである。やや泥繩どろなわのきらいはあるけれども、これからでも少しずつ、注意を深めることにしてはどうかと思う。」