覚鑁上人の「阿字観」という著があります。ここには今回の行の参考になることがかかれてありました。引用します。「わが心月輪の中に本有法然の阿字あり。これ本不生の理なり。上、自性法身より、下、六道四生の凡夫、非情の土木、瓦石にいたるまで、この本不生の理を備えずということなし。故に諸仏も我も同体なり。故に如何とならば、本不生の理、同じなるが故に、又、一切衆生と我と同体なり。同体不生の故に一切衆生本有薩埵とはこれなり。
故にわが心月輪の阿字の出息として出で他を度し、一切衆生の出息と又我が入息として自らを度す。又、諸仏の心月輪の阿字、外に出で、我が心月輪に住す。これ今の入息なり。我が息風、心月輪よりいでて諸仏の心月輪に住す。かくのごとく、出入すること無始より今時に至って、更に増減なし。尽未来際もまたまた是の如し。此の観を屡屡凝して、一切衆生の本不生の理も、諸仏の本不生の義も、終に我が心上に収めて、息を鼻の先へ風(かすか)に通じて、口をすこし開いて出入りをかぞふべきなり。・・・」
求聞持行の場合はこの「心月輪の阿字」が「心月輪の虚空蔵菩薩のご真言」となるのです。
故にわが心月輪の阿字の出息として出で他を度し、一切衆生の出息と又我が入息として自らを度す。又、諸仏の心月輪の阿字、外に出で、我が心月輪に住す。これ今の入息なり。我が息風、心月輪よりいでて諸仏の心月輪に住す。かくのごとく、出入すること無始より今時に至って、更に増減なし。尽未来際もまたまた是の如し。此の観を屡屡凝して、一切衆生の本不生の理も、諸仏の本不生の義も、終に我が心上に収めて、息を鼻の先へ風(かすか)に通じて、口をすこし開いて出入りをかぞふべきなり。・・・」
求聞持行の場合はこの「心月輪の阿字」が「心月輪の虚空蔵菩薩のご真言」となるのです。