第百四代後柏原天皇は疫病平癒の為般若心経を宸筆され国の重要文化財となっています。
応仁の乱により、公卿は地方に離散し、朝廷の財政は窮乏し、天皇の権威も地に落ちた時代だった。後柏原天皇は応仁の乱や疾病に苦しむ民を思い続けられました。仏教に帰依し、大永五年(1525年)の疱瘡大流行時には自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納。詩歌管弦、書道に長けていたといわれています。
「宸翰英華」によるとこの奥書の内容は以下のようになっています。
「宸筆般若心経奥書(案)
頃年、小瘡流行、都鄙愁苦久円矣。之に依りて蒼生を利する為に聊か丹精を凝らし般若の真文を写し仁和の霊寺に祷る。仰ぎ願はくは三寶知見し萬民安楽乃法界平等利益。 大永五年十一月十七日」
(後柏原天皇の時代、大永五年に疱瘡流行し都鄙大いに苦しんだ。天皇は心経を書写して仁和寺及び延暦寺に納め給ひ、悪疫の終焉を御祈請あらせられた。三條西實隆の日記によれば、同年1,525十一月十七日天皇は實隆に宸翰の紺紙金泥の心経を拝見せしめられその後、奥書のことに関して諮らせられた。・・)