福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

十六,十七日と高野山で先祖供養塔婆を納め、理趣経講伝を受けてきました。

2011-02-18 | 真言安心勧善義
十六,十七日と高野山で先祖供養塔婆を納め、管長様より理趣経講伝を受けてきました。此のときの報告です。

1、 雪の御廟にお参りして各家の塔婆を供養したこと。
前日全国的に降った大雪で高野全山も雪の綿帽子を被って静まり返っていました。
十七日は朝3時過ぎに起き、御廟に向かいました。一の橋にはロープが張ってあり「雪のため通行禁止」と張り紙があります。ままよとロープを潜り抜け参道にはいるといつもはついている街灯も消えています。雪明りをたよりに、くるぶしの上まである雪を踏みしめながら、一歩一歩歩いていきました。やっとの思いで御廟橋に着ますとさすがに御廟近くになるときれいに雪掻きをしてあります。しかし石畳は凍りついています。恐る恐るあるいて水掛地蔵さまのところにたどりつき、31日に皆さんで供養した各家の塔婆を置き、灯明お線香をつけ拝みました。不思議にここの水だけは凍結していません。氷の張った柄杓で塔婆に水をかけ懇ろに手を合わせました。
誰もいないと思っていた廟前に行くと、一人のおばあさんが灯明をつけていました。私が座ってお経をあげていると近寄ってきて『衣が下についていますよ』と教えてくれます。衣が垂れて汚れるところだったのです。こんな時間にしかも大雪の中、不思議な老女がいたものです。そのあと心行くまで理趣経をあげました。いつもこうして夜明け前に一人でお大師様を拝める時間がなんともいえず有難いのです。
帰りには参道の師僧の墓によりましたが、脛まである雪をかきわけねばなりませんでした。しかしいつもは安全のため消すローソクの火をこの日は雪中につけっぱなしにできました。夜の帳の中でローソクの炎が雪に映えて幻想的にゆれました。

2、講伝で福聚講の今後の方向性を示唆いただいたこと
この日の講伝は始まる前から独特の有難さが体に満ちてきていました。なぜだったのか始まると分かりました。この日は二つの大きな収穫があったのです。

一つ目は、いままで知りたかった理趣経でいう「清浄」(せいせい)の意味をおしえていただけたことです。理趣経は欲望も「清浄」であるとしますが、この「清浄」とは布施の「三輪清浄」の「清浄」と同じ意味で、「自他を分けない」ということだったのです。もっといえば二分法でものごとを見ないということでしょう。まさに般若心経の「不生不滅、不垢不浄、不増不減」の世界のことだったのです。維摩経などにも「衆生清ければ国土清し」といいますが此の場合も単に汚れがないということ以上に「ひとつである」ということなのでしょう。目からうろこでした。

二つ目、これが極め付けの有難さですが、理趣経第五段「富の法門、虚空蔵品」の講説があったのです。師のおっしゃるにはここでは「有情への灌頂施によって自らも三界法王位を得、沙門への布施により自らも一切の願いを満足でき、冥界の鬼神達に佛法を説くことにより自らも一切法を完成でき、畜生を助けることにより一切の安楽を得る」と説かれているということでした。まさに福聚講の「福」のもととなる考えを説いていると感じた次第でした。そして毎年高野山で受ける結縁「灌頂」もこれからすると「三界法王位」を得るもととなるわけです。(もっとも師は「灌頂施とは有情に対して無限の価値をみいだすことである」とも説かれましたが・・・。)まさに福聚講の今後を示唆いただいた感がして有難くてたまりませんでした。
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