福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「都率往生問答訣 」

2022-02-25 | 真言安心勧善義

「都率往生問答訣 月海述」

(謹んで聞く、月海大和尚群生に示して曰く、西方極楽は報身の浄土にして、而も濁世愚昧の凡夫容易に遂げ難し。唯一向に都率往生を願うふべし。我が弘法大師都率を願ひ終焉の期に至りて弥勒の寶號を唱念し、而て寂定三昧に入りたまふ。何に況や凡夫をや。専ら都率宮を願ふべし。愚、案ずるに造悪の凡夫念仏十聲すれば他力の本願に乗じて西方に往生する教行、仏説少なからず。其の要を取るに観無量寿経、阿弥陀経、同儀軌、龍樹・天親等の論、其の餘勝て算ふべからず。蓋し九品の儀は衆生機根の差別なり。別詮都て一仏土を尊ぶ。而して其の土の衆生、皆悉く不退転に至ると云ふ。蓋し都率宮は未だ欲界を離れず。一旦彼の界に生まれることを得ると雖も、其の功盡れば則ち再び娑婆に還来すと。彼此可否を辨ぜず。遽然として狐疑す。然るに今時、日域の風俗、諸宗共に下愚の徒は総て念仏門に入り、一同に専ら西方を願ふ也。適ま都率往生を願ふ者は万が一なり。仰ぎ願はくは和尚慈眼を垂れて分明に解脱生死の法要を教示せよ。稽首九拝。

元文二龍集丁巳季夏  正井喬榮 欽白)

「正井居士、西方往生の義を盛んにして而も都率上生の深趣を疑ふ。一日、書翰を以て問へり。問ふ處、然ることを得ず。今略して其の大旨を挙似す。夫れ佛に三身あり。謂く、法・報・應なり。教に二種あり。顕密二教なり。法身大日の所説は本地法界宮の三密門、唯唯佛輿佛の境界にして心量の域に非ず。報身とは三界の外に浄土を構へて十地の菩薩の為に説法す。安養の身土の如きは亦是也。應身佛とは火宅に出でて正覚を成し、外道凡夫の為に説法す。釈迦及び慈氏尊の如き是也。然るに報土の弥陀摂取の願あるが如きは、則ち攝論に拠るに亦別時意(別時意説とは、念仏による西方往生は「即時(順次)」ではなく、輪廻を繰り返した遠い将来の「別時」とする、隋唐代の中国仏教界において勃発した念仏往生に対する論難)に約して如是の説を為す。次生に即ち往生すと謂ふには非ず。所以はなんとなれば、此の報身報土は是れ十地の境界にして而も凡夫相応の身土に非ず。是の故に佛、報身を現じて華厳を説くに、舎利弗・目連の如きすら尚聾の如く盲の如し。何に況や自余の人天をや。まさに知るべし、凡夫禅定に依りて八万劫を知見し、聖者欲界の見思を断じて滅盡定を得ると雖も、尚ほ火宅を出ること能ず。末代の愚俗、何に由ってか容易に三界を超て弥陀の浄土に往生することを得んや。

問、何をか謂て別時意と為る耶。謂く、一文銭を以て萬文銭を得ると云が如き、是則ち別時意に約す。一文銭を以て直に萬文銭を得ると謂ふには非ず。喩の意、知りぬべし。攝論は是無著の作。天親の釈なり。浄土の元祖既に文を釈することこの如し。故に阿弥陀経に曰く「少善根福徳の因縁をもってかの国に生まれることを得」。無量寿儀軌に曰く「薄徳無慧の者は生ずること能わず」と。又天親の浄土論、無著の往生論に幷に曰く「女人および根缼等の者は生ずること能わず」と。曇鸞法師既に浄土論に依って浄土一宗を開立し、無著天親を以て元祖と称す。然るに天親菩薩は至心信楽欲生極楽の唱を為す。安羪(あんよう)に赴くこと能わず。而も却って都率に往生するは何ぞや。元祖法将すでに斃れたり。幕下の衆軍盡く依拠を失するものか。又、玄奘三蔵の曰く「西方の道俗は並びに皆な弥勒の業を作す。同じく欲界なればその行成じ易し。大小乗の師皆此の法を許す。彌陀の浄土は恐らくは凡鄙穢の者修行成し難からん」と。又浄土家の群疑論に曰く「古今の盛徳碩学高僧生じ難しと謂って而も都率の業を作す」と。見よ、天竺震旦の高僧碩徳および在家、悉く皆都率の業を作す。日域においては則ち天智天武持統帝を始めとして王公大人及び群縣率土の賓総て皆都率往生を期すること既に歴代記録に載てあり。ようやく源信源空の徒出に及んで宗義を作為し、以て道俗を勧誘し念仏口称の浄業を称讃し、兜率上生の輩をして斷ぜしむるもの歟。然るに往生要集は偽書等に依って起こり、撰擇集は摧邪輪に破するが如き、将に今三朝の古今を歴覧するに西方往生の行者は却って万が一といふべき矣。此の宗に明かす所の兜率内院の慈氏尊とは大日普門の應身にして三世度生一切の應佛に密合して以て此の慈氏尊を成すべし。故に四十九重の諸尊、彌陀文殊の佛諸尊と雖も悉く慈氏菩薩の示現したまへし也。故に華厳経に曰く「一切如来の神力所現也」と。慈氏儀軌に曰く「慈氏は大日と同一体。毘盧遮那は即ち慈氏なり」と。

吾大師の釈に云く「弥勒菩薩の三摩地門は所謂大慈三昧也。一切如来の大慈悲無量なるを弥勒と名く。凡そ三世十方の諸仏度衆生の誓願はことごとく應身の化儀に依って普賢の行を満足すべし。大乗の學人苟も此の愈誐に念珠するに依って必ず無上の大悉地を得ん」と。現身尚往生す、況や亦身後をや。無上の大果、頓に必ず獲す。況や亦自餘の悉地をや。兜率は是同じく欲界にして而も直に到り易し。慈氏は是慈父にして能く子を攝す。劫壊の三災と雖も永く及ばざる所なり。故に首楞厳経に曰く「下界の諸人天の境に接せず、乃至劫壊の三災も及ばざる、如是の遺す所の者を教化して蓮華の如く悉く開悟せしめんと欲するが故に、此に於いて命終して兜率に生ず」と。又菩薩處胎経に、「我遺法の中に於いて一に南無佛と称するは弥勒三會の法の中に於いて皆悉く度する所なり」と。上生経に曰く「兜率において昼夜六時に常に不転法輪の行を説く、一時を経る中に五百億の天子を成就して無上菩提を退せざらしむ」。心地観経に曰く「末法の中に於いて善男子善女人、一搏の食を衆生に施す。此の善根を以て弥勒を見、當に菩提究竟道を得」。又菩提処胎経にいわく「若し無量の衆生有りて安養浄土の往生せんと欲すれども而も其の中の乃至一人も往生を得ること能はず」と。其の難易、文に在りて見るべし。南山宣律師の曰く「願は含識と共に自在に弥勒の内院に往生せん。仏前に至るを得て随念修学して不退転を証すべし」と。菩提心論を引きて曰く「修する所の善根皆悉く無上菩提に廻向すれば弥勒の仏前に生じて清浄の法を聞きて無生法忍を悟る。修する所の善根幷に共に法界の衆生と弥勒佛の前に廻向して速やかに不退を成ぜん」と。吾大師云く「門徒数千万と雖も併しながら吾後生の弟子也。必ず吾が名号を聞きて恩徳の由を知れ。是れ吾白屍の上に更に人の労りを欲するに非ず。密教の寿命を護り継いで龍華三庭を開かしむ謀なり。吾閉眼の後は必ず兜率に往生して弥勒菩薩の御前に侍るべし等」と。羅什三蔵臨終に誓願して曰く「願わくは捨寿の時、常に弥勒の前に在って、足に登王の座を履み、口に香積の飯を飡し、耳に八解の音を聴き、目に紫紺の色を覩て、定慧十力を具し、智慧神通朗らかに、広く如来の教えを演じ、普く善智識と為って、一念に十方に遍ず。地獄皆休息せん」と。南嶽思禅師の曰く「我釈迦の末世に於いて法華を受持し今慈氏に値ひたてまつりて感傷悲泣して豁然として覚悟し轉復精進せり」と。梁の僧傳に云く「釈道安は神性聡敏なり。安、毎に弟子法遇等とともに弥勒の前に於いて誓を立て、兜率に生まれんことを願ふ」と。高僧傳第十九に、智者大師及び灌頂法師等の兜率に往生せしことを記録す。嘉祥大師の云く「弥勒を見たてまつらんと願ひて西方を求めず。普賢僧に対して即ち往生を得ん」と。玄奘三蔵の云く「願くは都史多天に生じて弥勒を見奉らん等」。高僧傳に云く「慈恩大師基、生常に勇進にして弥勒の像を造り、其の像に対して日に菩薩戒一徧を誦し兜率に生ぜんことを願ふ」。上来の諸大徳は皆是神悟感通の名師なり。故に此に抄出して都率上生の所以あることを思はしむ。釈尊既に遺法の弟子を以て悉く皆慈氏に附したまふ。慈氏苦海の溺子を領す。一子の顧眄を以て火宅の諸子を護念す。何れの佛か亦この慈父尊の親縁の深きに如かんや。末代の稚子、慈父の顧命に背ひて徒に他方を願ふて可ならんや。吾大師の提撕したまふ所亦此に在り。言は意を盡さず猶ほ餘疑あらば直に来て訣擇せよ。

月海房」

 

作者略傳、月海和尚、字は弘秀。大阪餌差町観音院の中興なり。生国俗姓等詳らかならず。能登鹿島郡山田寺に入りて出家し越中下新川郡心漣坊に住し加賀金沢愛宕明王院に転住し、後大阪観音院に転住す。若年の頃、諸宗の学匠を歴訪し各その門に入りて学び、學顕密を該ぬ。學成りて後、諸寺の請に赴きて広く道俗の為に経論章疏を講ずること年々絶えず。其の大疏を講ぜし時の如き、学徒雲集し講席立錐の地を余さず。後ろに坐する者は前に坐する者の背上に書を載せて聴講せりと云ふ。以て其の盛名を想ふべし。観音院は九条関白の創建にして和尚の時、堂宇庫裏等頗る朽損せり。内大臣九条應龍公、和尚の望に随て悉く皆再建せられ亦其の学徳を賞して珍奇の見台を贈らる。和尚乃ち書を奉りて恩遇を謝す。其の書にいわく、「恭く惟んみるに小野前門主瓊峯尊者は識見顕密の諸教を陶貫し、才智古今に出ず。謂ひつべし、釈門の關鈴、密家の柱石也と。迂僧慶幸いの思ひ、実に命世の法匠なり。異日必ず法雷を巻き大に宗風を振ひ、再び仏祖の慧日を挽廻する者は唯この尊者に在りと。然るに今茲癸亥夏、頻りに詔あり。終に先祖の遺嗣を継ぎ而して既に九条殿下に任ぜらる。惜しいかな。然るに左右に命じて珍奇の見台を贈らる。以て予に賜ふ。恐懼再拝して之を領し、恭く俚語一絶を以て恩遇を謝し奉り云ふ、

「二年老懶恭陪を絶す。何の幸ぞ坐して珍見台を領す。他日書を載せ仏道を賛ぜば、天竜随喜して君を祝い来らむ。」

寛延三年庚午二月二十九日、観音院に於て遷化し其の寺に葬る。寿詳らかならず。讃州大護寺第二世瑞宝和尚に贈れる書簡に「拙老五十歳已来十七八年の内、年を追って彌増に衰遇仕り万事老懶而已にて、一事成り申すこと之なく、空しく死を待つ計の體に罷りなり、修行も中々得堪へ申さず候」。とあれば七八十歳の高齢なりしうなるべし。著書は「都率往生問答訣」「阿字観口決」幷に「阿字観次第」あり。・・)

 

 

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