福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

真言安心勧善義その13

2020-12-14 | 真言安心勧善義

弘法大師御入定の事

問。大師御入定とあるは実にありがたき義なりとうけたまはれり。拙き我等ごときも少しき又聞くことを得べきや。

答。大師は金剛大定と申すに入らせましまして、焼けば灰となり、埋めば土となる此の四大色身、此の五蘊聚集の肉身を、大師はそのまま少しも壊せず堅持したもうて、慈尊出世五十六億七千万歳龍華の暁を待ちたまふとなり。実に即身成仏の証拠効現著しきことにて最も又ありがたき御事ならずや。往昔迦葉尊者鶏足山に入って正受に住し給へる外には三国の際伝え聞くこともっとも希なり。

大師は人王五十四代の帝、仁明天皇承和二年三月二十一日御入定あり。御目を瞑せ、御気絶えさせ給ふといへども、御身ひたすら暖にして御鬚髪日々に長じさせ給たまへること御平生に少しも替わり給はず。五十日を過ぎて、御弟子衆相共に御髪を剃りまいらせ、御衣を整えたてまつりて定身をそのまま奥の院に蔵めたまへりと云へり。

御入定に先立ちて二十五ヵ条の御遺戒をおさだめなされ、末代真言宗徒の鏡となされ、七日の間、御弟子達と共に弥勒の宝号を念じたまふといへり。そもそも定身は奥の院樹下におさまりたまふといえども常にまた兜卒天におわしましまして、はるかに此の国の王法仏法を護りましまし、又真言宗徒の信心不信人を照らし鑑み給ひて、信ある者には福をあたえ、不信心の輩には罰をあたへ給はんと、大師みずから仰せ置かれしなり。またつねに処々の遺跡を検知ましますとあり。

しかるゆえにや国々処々にて千歳下の今に至っても僧俗男女貴賎に限らず、まのあたり直に大師に値遇し奉る輩これ多し。(衛門三郎はじめ四国遍路では大師にお会いできた人が多くいます。当方も・・・)特に定後八十七年、六十代の帝醍醐天皇延喜二十一年、天皇の御夢中に大師御相見ましまして、御衣を乞ひ求め給へることありしに因って、醍醐寺の座主観賢僧正を勅旨となされ、紫衣一領を大師へ贈りまいらせたまへり。僧正即ち高野山に登り、奥の院に詣りて勅旨の旨を宣たまひ、御入定の扉を啓きて黙祷ましますこと須ユありしに、大師の真身即ちあらわれ拝れさせ給へり。御鬚髪甚だ長くならせましましけるに因って、僧正みずから是を剃り奉りまいらせ給ふて、天皇より進ぜられたまへる御衣を召し替させましましける。然るに供奉の僧衆は拝みたてまつることあたはず。又石山の淳祐僧都其の頃いまだ童子にて僧正召し具せられけるに、是も拝みたまへることあたわざるによって、僧正即ち童子の手を取って、大師定身の御膝をさぐらしめたまふに、まさしく御膚の暖にして柔なることを覚りたまへりけるに、その手、甚だ香して年月を経ても其の薫り猶散ぜずといへり。その後淳祐の手に触れたまへる書籍にも其の薫りうつりければ、是を石山の薫の聖経と申し伝えたり。

大師あるいは分身後身を長和皇子、法勝寺の寺務特進性信法師(注1)、仁和寺の成典僧正(注2)等と顕はれましますことあり。然れども其れこれ等は尚是れ一時機感の一端のみなり。実には大師の真身は法界に遍せり。虚空の月の萬水に応じて其の形を現ずるが如し。信心の水澄めるときは常に必ず大師の真身拝まれ移りまします。即身成仏不転肉身の金剛大定、真言宗旨の効験じつにありがたきことにあらずや。


注1)性信法師1005‐85(寛弘2‐応徳2)
仁和寺二世。性信法親王とも称し大御室(おおおむろ)とも号す。三条天皇の第四子,母は藤原済時女。1011年(寛弘8)親王宣下をうけて師明親王となる。18年(寛仁2)仁和寺の喜多院済信のもとで出家し法流を悉く伝授さる。東大寺で登壇受戒。23年(治安3)伝法灌頂を受ける。25年(万寿2)灌頂阿闍梨。1059(康平二年)高野に登り護摩800余日を修す。
1068(治歴四)年天皇病に孔雀経法を修す等、孔雀経法修法二十余度に及び法験に長ず。天皇,皇太子,関白らの病を治し,世に弘法大師の後身と称された。
1073年延久5年三条天皇の戒師を勤める。77年(承暦1)法勝寺検校,83年(永保3)二品に叙され,皇子出家後叙品のはじまりとされる。門下に寛助、寛意、等多数。

(注2)仁和寺の成典僧正
以下密教大辞典による。
「成典セイテン、958~1044.京都円教寺の学僧。一に園堂僧正と号す。姓氏詳ならず。幼くして成印の室に入りて出家し正歴6年10月1日小野仁海僧正に傳法灌頂を受け仁和寺円堂を司る。法験無比。仁和寺円堂に密供を修するに大魔妨碍をなす。成典即ち理趣経の「一切諸魔不能壊」の句を誦するに諸魔忽ちに退散セリといふ。(今昔物語巻二十第五話 木から落ちた女天狗の話として出てくる)。寛仁三年十月権律師。治安三年十二月東寺三の長者。長元四年十二月言大僧都。九年十二月東寺西院に阿闍梨八口の増加を請ひて許される。長歴元年禁裏に怪あるや般若理趣経を誦してこれを除く。長歴二年権僧正。これよりさき長元七年皇妃楨子の為に不空羂索法を修して安産を祈り皇子誕生す。後三条天皇これなり。後朱雀帝その法験を賞し円教寺を賜ひ、阿闍梨四口を置く。後朱雀帝、後冷泉帝、陽明皇后楨子は篤く師に帰依して受法し給ひ崩後は詔命により玉骨を円教寺に納め給ひぬ。師は平素聖天に帰依しあるとき聖天に葡萄酒を献じたところ聖天舌を弾じて嘗めたりとてその像を舌打ちの聖天と称せり。寛徳元年十月二十八日寂す。世壽八十七.(本朝高僧伝、東寺長者補任、仁和寺諸院家記・・)

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