越後の國の神融聖人、
いかづちをしばりてたふをたてたること
縛雷起塔語 第一
今は昔、
越後國に聖人有けり、名をば神融と云ふ。世に古志の小大徳と云ふは此れ也。幼稚の時より
法花経を受け持て、晝夜に讀奉るを以てやくとして年来を経たり。亦、懃に佛の
道を行ふ事怠る事无し。然れば、諸人、此の聖人貴び敬ふ事无限し。
而る間、其の國に一の山寺有り、國上山と云ふ。而るに、其の國に住む人有けり、
専に心をおこして、此の山に塔をたて起たり。供養せむと為る間に、俄に雷電
霹靂して此の塔をくヱやぶりて雷、空に昇ぬ。
願主、泣き悲て歎く事无限し。然とも、「此れ、自然ら有る事也」と思て、即ち、亦改めて此の塔を
造つ。亦供養せむと思ふ程に、前の如く雷下てくヱやぶりて遂ざる事を歎き
悲むで、猶改めて塔を造つ。此の度び、雷の為に塔を被壊る事を止めむと、心を至て泣くなくく願ひ祈
る間に、彼の神融聖人、来て願主に向て云く、「汝ぢ歎く事无かれ。我れ法花経の力を以て、此の度
雷の為に此の塔を不令壊ずして汝が願を令遂む」と。願主、此れを聞て、掌を合せて聖人に向て
泣くなく恭敬礼拜して喜ぶ事无限し。聖人、塔の下に来り居て一心に法花経を誦す。
暫許有て、空陰り細なる雨降て雷電霹靂す。願主、此れを見て、恐ぢ怖れて、「此れ、
前ざきの如く塔を可壊き前相也」と思て、歎き悲む。聖人は、誓ひをおこして、音を擧て法花経を
讀奉る。其の時に、年十五六許なる童、空より聖人の前に堕たり。其の形を見れば、頭の髪
蓬の如くに乱れて、極て恐し氣也、其の身を五所被縛たり。童、涙を流
して、起き臥し、辛苦悩乱して、音を擧て聖人に申さく、「聖人、慈悲を以て
我れを免し給へ。我れ、此れより後、更に此の塔を壊る事不有じ」と。聖人、童に問て
云く、「汝ぢ、何許の悪心を以て此の塔を度々壊るぞと。」童の云く、
「此の山の地主の神、我れと深き契り有り。地主の神の云く、『我が上に塔を起つ。我れ、住む所无かるべし、此の塔を
可壊し』と。我れ、此の語に依て度度塔を壊れり。而るに、今、法花経の力不思議なるに依て、我れ、吉く
被縛ぬ。然れば、速に地主の神を他の所に令移去めて、永く逆心を止む」と。
聖人の云く、「汝ぢ、此れより後のち佛法に随て逆罪を造る事无かれ。亦、此の寺の所を見るに、更に水の
便无し。谷に下て水を汲むに煩ひ多し。何ぞ、汝ぢ此の所に水を可出し。其れを以て住僧の
便と為む。若し汝ぢ水を出す事无くは、我れ、汝を縛て、年月を送ると云ふとも不令去じ。亦、汝ぢ此の東西南
北四十里の内に雷電の音を不可成ず」と。
童、跪て聖人の言を聞て、荅て申さく、「我れ、聖人の言の如く水を可出し、亦、此の山の外四十里の間に雷電の
音を不成じ。何况や、向ひ来る事をやと」云ふに、聖人雷を免しつ。
其の時に、雷、掌の中に瓶の水をいつてい受て、指を以て巖の上をつかみ穿て大きに動して、空に飛び
昇ぬ。其の時彼の巖の穴より清き水涌き出づ。
願主は塔を不被壊ざる事を喜び悲むで本意の如く供養しつ、此の山の住僧は水の便を得たる事を
喜て聖人を礼す。其の後、数百歳を送ると云へども、塔壊る、事无し。
亦、諸の所に雷電震動すと云へども、此の山の東西南北四十里の内に于今雷の音を不聞ず。亦、其の水
不絶ずして于今有り、雷の誓ひ錯つ事无し。實に此れ、法花経の力也。亦、聖人の誓ひの實なる事を知り、
施主の深き願の足れる事を皆人貴びけりとなむ語り傳へたると。や
いかづちをしばりてたふをたてたること
縛雷起塔語 第一
今は昔、
越後國に聖人有けり、名をば神融と云ふ。世に古志の小大徳と云ふは此れ也。幼稚の時より
法花経を受け持て、晝夜に讀奉るを以てやくとして年来を経たり。亦、懃に佛の
道を行ふ事怠る事无し。然れば、諸人、此の聖人貴び敬ふ事无限し。
而る間、其の國に一の山寺有り、國上山と云ふ。而るに、其の國に住む人有けり、
専に心をおこして、此の山に塔をたて起たり。供養せむと為る間に、俄に雷電
霹靂して此の塔をくヱやぶりて雷、空に昇ぬ。
願主、泣き悲て歎く事无限し。然とも、「此れ、自然ら有る事也」と思て、即ち、亦改めて此の塔を
造つ。亦供養せむと思ふ程に、前の如く雷下てくヱやぶりて遂ざる事を歎き
悲むで、猶改めて塔を造つ。此の度び、雷の為に塔を被壊る事を止めむと、心を至て泣くなくく願ひ祈
る間に、彼の神融聖人、来て願主に向て云く、「汝ぢ歎く事无かれ。我れ法花経の力を以て、此の度
雷の為に此の塔を不令壊ずして汝が願を令遂む」と。願主、此れを聞て、掌を合せて聖人に向て
泣くなく恭敬礼拜して喜ぶ事无限し。聖人、塔の下に来り居て一心に法花経を誦す。
暫許有て、空陰り細なる雨降て雷電霹靂す。願主、此れを見て、恐ぢ怖れて、「此れ、
前ざきの如く塔を可壊き前相也」と思て、歎き悲む。聖人は、誓ひをおこして、音を擧て法花経を
讀奉る。其の時に、年十五六許なる童、空より聖人の前に堕たり。其の形を見れば、頭の髪
蓬の如くに乱れて、極て恐し氣也、其の身を五所被縛たり。童、涙を流
して、起き臥し、辛苦悩乱して、音を擧て聖人に申さく、「聖人、慈悲を以て
我れを免し給へ。我れ、此れより後、更に此の塔を壊る事不有じ」と。聖人、童に問て
云く、「汝ぢ、何許の悪心を以て此の塔を度々壊るぞと。」童の云く、
「此の山の地主の神、我れと深き契り有り。地主の神の云く、『我が上に塔を起つ。我れ、住む所无かるべし、此の塔を
可壊し』と。我れ、此の語に依て度度塔を壊れり。而るに、今、法花経の力不思議なるに依て、我れ、吉く
被縛ぬ。然れば、速に地主の神を他の所に令移去めて、永く逆心を止む」と。
聖人の云く、「汝ぢ、此れより後のち佛法に随て逆罪を造る事无かれ。亦、此の寺の所を見るに、更に水の
便无し。谷に下て水を汲むに煩ひ多し。何ぞ、汝ぢ此の所に水を可出し。其れを以て住僧の
便と為む。若し汝ぢ水を出す事无くは、我れ、汝を縛て、年月を送ると云ふとも不令去じ。亦、汝ぢ此の東西南
北四十里の内に雷電の音を不可成ず」と。
童、跪て聖人の言を聞て、荅て申さく、「我れ、聖人の言の如く水を可出し、亦、此の山の外四十里の間に雷電の
音を不成じ。何况や、向ひ来る事をやと」云ふに、聖人雷を免しつ。
其の時に、雷、掌の中に瓶の水をいつてい受て、指を以て巖の上をつかみ穿て大きに動して、空に飛び
昇ぬ。其の時彼の巖の穴より清き水涌き出づ。
願主は塔を不被壊ざる事を喜び悲むで本意の如く供養しつ、此の山の住僧は水の便を得たる事を
喜て聖人を礼す。其の後、数百歳を送ると云へども、塔壊る、事无し。
亦、諸の所に雷電震動すと云へども、此の山の東西南北四十里の内に于今雷の音を不聞ず。亦、其の水
不絶ずして于今有り、雷の誓ひ錯つ事无し。實に此れ、法花経の力也。亦、聖人の誓ひの實なる事を知り、
施主の深き願の足れる事を皆人貴びけりとなむ語り傳へたると。や