福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)より・・その34

2014-03-12 | 法話

第三四課 結婚と夫婦愛


 青年男女が相当の年配に達すると、自然と起る呼び声があります。「いつまでぐずぐずしているのだ。もう身を固めてもよかろう」。それは傍はたからも聞えて来ますし、自分自身の内部からも湧き上って来ます。何故そんな呼び声が起って来るのでしょうか。自分の家庭を作って心身の拠よりどころとし、ひいては子孫をもうけ家系を絶やさぬようにするのが世間のしきたりだからそういう声が起って来るのだと。それは通り一遍の解釈であります。しきたりだからという単なる理由だけでは、何も青年男女の殆んど総べてが時期に後れまじと吸い付けられるように結婚するわけがありません。
 それは全ての人間の内部に潜む人格完成の種子が、時期来ってますます芽を伸ばさんとし、それと呼応して全宇宙に漲る大生命の哺はぐくみ育てんとする作用力が、この種子に働きかけるためだと仏教では考えるのです。内外呼応して人間を刺戟するので、知らず知らずその自然力に押し迫られて青年男女は結婚という形式を以て――これは二人協力ですから比較的気強いです――人格完成に向うのでありましょう。これが「もう身を固めねばならない」という嘆声になります。また身内や友達も自己の体験に響いてそうさせるべきだという自然力を知らず知らずのうちに感じて「もう身を固めなさい」という助言を与えるのであります。そこで自分はもちろん身内のものや友達などが寄ってたかって配偶者を見付けにかかります。そして複雑な因縁の理によって、前から恋していた男女、縁つづきの男女、あるいは外見上、偶然の機会で知り合った男女、または思いもよらぬ人の勧告、仲介によって、男女は一生のかためを致します。しかしいずれも結びつくべき因縁があって、結びついたものであります。
 結婚するに際して持参金目当てとか、家門のため、子孫繁栄のため、生活能率増進のため、放蕩防止のために結婚しようとするのは浅はかな考えであります。目的はもっと重大な人格完成にあります。かくして青年男女が、最も信頼するに足る媒酌人や神仏などの一種の権威の立会いの下に、いよいよこれからの二人の生涯を一緒に合せて、それを連帯責任として永遠に負担するということをハッキリと誓うのであります。恋人同志間でも、お互いに助け合って行こうと言い交わしますけれど、その意志や感情は実生活上のいろいろの事情のために妨げられて、どんなに変化するとも知れませんから、二人の結束もいつ破れるか判りません。結婚はその危険に対して防衛すべく、保証人を置いて天下に二人の意志継続を宣言するのであります。
 新婚当初の愛は、まだ本当の意味の夫婦愛ではありません。殆んど普通の恋愛に近いものでありましょう。しかしその華やかにして遠慮がちな新婚生活は、一心同体となって勇ましくも荊棘いばら多き人生行路を突き進まんには、余りに果はかなき生活であります。
 恋愛は、男女対等の立場に置かれて、しかも異性としての特長がある限度までは相反する方が却って両者の愛は増すのであります。これと反して夫婦愛はなかなか複雑なものではあるが、いずれか自我を捨てて無我となり、両者一身のごとく融け合って、遂には、性的愛着から解脱するものさえあります。
 故に結婚当初、恋愛生活を夫婦愛と間違えていたものは、結婚後二年、三年、五年と経つうちに、余りに身近く打ち融けてお互いに異性としての魅力もなくなり、兄妹のごとく、師弟のごとく、母子のごとく、友達のごとく、感じて来るのに唖然として新婚の快い夢が覚めるのであります。この時が結婚倦怠期であって、最も戒心を要する時であります。相互の矛盾欠点が眼に立ち、赤裸々の男女が鼻突き合せて、遠慮会釈もなく、ザックバランに、二人が本当にこれから先きの長い生涯を一緒に暮し得らるるや否やを吟味するのであります。その刹那こそ真剣にして悲壮な場面であります。この際、男の社会的地位も事業も風采も何のたしにもなりませんし、女の器量も表情も勘定のうちに入りません。ただただ赤裸々な一男性と、一女性とがお互いの愛と、ともに担い合う意力とを吟味するのであります。かくしてお互いが信頼し得るものと決定したとき、その決定は仏教の真諦に相当するものであって、物の真実性を認めたものであります。決して誤算がありません。この時の結合はもはや人智や意志の結合ではなくて、因縁の理による自然力の結合であります。私はこの結合を機として、本当の夫婦愛、本当の夫婦生活が始まるのだと思います。この結合にまで到達した夫婦の愛は、水中に魚の泳ぐがごとく、山に樹木の生えたるがごとく、自然そのものであります。時たま喧嘩することもありましょう、恨み嫉ねたむこともありましょう、また不平不満を洩すこともありましょう、がしかし彼らは決して離れられないのであります。どんなにしても別れられないのであります。ここに離れられない夫婦の例があります。たまに夫が他の女のところへ出かけようとします。無論一心同体の妻が感付かぬはずがありません。そこで妻は玄関を出ようとする夫に向って快活に話しかけました。「あなた、どこへいらっしても、結局女ってみんな私と同じよ。私より良くもなければ、悪くもないのよ。無駄をしないで、私と遊びに行きましょう」
 そこで夫は苦笑しながら、「こうさばけられては仕方がない」と言って、朗らかに妻と一緒に遊びに出かけました。
 何という安心しきった妻の言葉でしょう。母のような、友達のような、先生のような。そして時たま謀叛気むほんぎを出しながら夫は、やはりこの妻を信じ、決して離れようなどとは夢にも思っていません。

うつし身のつひに果てなん極みまで
  添ひゆくいのち正眼には見よ
(結婚がうまくいかない、或は夫婦間がうまくいかない、というケースは何れの時代もありましたが最近とみに増えてきているようです。これには背後に深い霊的背景がある場合があるように感じます。それぞれのご先祖が鍵と云う気がすることもあります。)
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