福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Q,悟ってもない者が他人を救えるか?

2018-02-04 | Q&A
Q,悟ってもない者が他人を救えるか?
A,悟ってなくても我が身を忘れて衆生済度の心をおこし、善根を廻向すれば自然と悟りに到り衆生済度できる。
夢中問答集(無窓疎石)より・・・12
問、自身もし出離せずんば他人を度することもあるべからず。しかるを自身をばさしおいて先ず衆生の為に善根を修すること、その理なきにしにあらずや。
答、衆生の生死に沈めることは我が身を執着してこの身のために名利を求めて、種々の罪業を作る故なり。しかればただ我が身をば忘れて衆生を益する心を発せば大悲内に薫じて佛心と冥合するゆえに、自身のためとて善根を修せざれども無辺の善根おのずから円備し、自身のために仏道を求めざれども、仏道すみやかに成就す。・・・菩薩心を発する人に智増・悲増の差別あり。まず一切衆生を度し尽くして後に仏道を成ぜむと誓ふはこれ悲増の菩薩なり。我が身先ず仏道を成じて後に衆生を度せむとするはこれ智増の菩薩なり。・・智増・悲増異なりといへども、衆生済度の心は変はることなし。(仏教大辞典に「智増・悲増・・法相宗の教義。八地以前の菩薩の分類。菩薩についていえば初地において倶生起の煩悩の現行を伏し尽くしてただちに変易身を受けるのを智増の菩薩、第七地の満心までこれを伏し尽くさず分段身を受けて衆生を救おうとするのを悲増の菩薩という。前者は煩悩を断って涅槃に到ろうとする智恵に於いてすぐれ、後者は生死に住して衆生を救おうとする慈悲に於いてすぐれているからこういう。・・他に智悲平等の菩薩があるともする(成唯識論7)」)
この故に一善を修し一行をなしてもみなこれを一切衆生に廻向することは同じかるべし

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