地蔵菩薩三国霊験記 6/14巻の4/22
四、立山罪人傳語の事
延好法師と云ふ僧諸国の霊地を巡礼して越中の國立山に参じ通夜読経して心を清くし籠り居たりしに丑の時(午前2時)計りに影の如くなる女人出来て悲泣して語らく、我本(もと)は平の京七條西洞院東向き北端鼻藤と申す。平門の内に父母兄弟今に在り。我果報つたなく早く死し独り此の山の地獄に堕ちぬ。されば薄善厚悪にして詮方なし。然れども我在生の砌、祇陀寺の地蔵講に詣でつる事只一度にして更に宿善なし。地蔵の讃歎を聴聞する功徳により薩埵毎日三度来臨し玉ひて我が苦に代玉ふなり。一には猛火の為焼かれて身骨皆一叚(一箇)の黒炭と成り、二には刀山に登り下りて劔樹身肉を破られて塵の如し。三には鐵杖にて鬼に打たるる事三百六十、身肉俱にくだかれて灰の如し。其の外苦を受ること言語につくしがたし。我故郷に在生の時朝夕容顔を作ろふ鏡あり。今妹是を所持す。是を取りて地蔵菩薩に供し奉り修福追善の功を作し、我が此の如きの苦患を救給はば誠に大利なるべしと云々。時に延好奇異の思をなしながら、なまじひに諾してんげり。免角して延好法師は下向の後路の便遥か國を隔て境遠かりけれども亡魂の望哀れにをもはれ別して薩埵の感應目前に聞ながら一人黙(もださん)ことは照鑑恐れ有りと上京して件の七條邊に尋ね逢ひぬ。彼の父母に対して試みに案内を問ければ亡魂の云ふが如し。さらばとて立山にての事を具さに談話してければ父母兄弟も泣涕して言語を絶す。延好とかくなぐさめて追善を経営す。軈(やが)て佛工を請じて御長三尺の地蔵菩薩を造立し奉りて件の鏡を相副へて亭子院(平安時代に前期に在位した宇多天皇の譲位後の後院である。西洞院大路の西側、左京七条二坊の十三町十四町に位置した。現在の京都市下京区油小路通塩小路下る南不動堂町近辺。亭子院歌合、亭子院酒合戦など著名な文人や大宮人を召いては宴や催しが行われたことで知られる。)に就いて供養し奉る。講師は大原の静源僧正とぞ申し傳たる。其の像今七條に現在し玉へり。利生昔より盛んにして佛徳今に新たに御座(おはします)。世は上古に隔たりあれども徳は現在に弥よ昌んなり。
引証。本願經に云く、復次に地蔵未来世の中に若しは天、若しは人、業報に随って悪趣に落在し趣の中に臨堕し或いは門首に至るべき、是の諸衆生若し能く一佛の名一菩薩の名、一句一偈も大乗経典を念じ得れば。是の諸衆生汝が神力を以て方便して救抜し是の人に於いて無辺の身を所現して為に地獄を砕き天に生ぜしめ勝妙楽を受けしめん云々(地藏菩薩本願經囑累人天品第十三「復次地藏。未來世中若天若人隨業報應落在惡趣。臨墮趣中或至門首。是諸衆生若能念得一佛名一菩薩名一句一偈大乘經典。是諸衆生汝以神力方便救拔。於是人所現無邊身爲碎地獄。遣令生天受勝妙樂」)。