八幡愚童訓の続・・・それ佛神に悲智の二徳御坐す。悲門には科を宥めて柔和忍辱の衣を覆い、智門には悪を断じ降伏威怒の剣を振ふ。されば釈迦成道の初め、大法の鼓を打ち大法の法螺を吹いて「三千界の衆生は皆悉く参るべし」とありしかば、大自在天ばかりは「世界も中には我より増さるもの覚えず。我をば誰か召すべし。しかるべからず。」とおおいに怒り,ついに仏前に参らねば、世尊不動明王をお使いにして、「大自在天を降伏せよ」とおおせらる。彼天これを聞き、「寄り付いては悪りなん。聖者は不浄を厭なるなれば」とて糞穢を集めて城を築いて引きこもる。その時不動明王は穢跡金剛の定に入り、糞穢をのみ尽くし三世降魔の姿を現じて自在天を踏み殺さる。刹那の間に上方華欲世界にて正覚を成ぜり。ここに金剛寿命陀羅尼(注1)を誦したまひしかば、即蘇生して心大歓喜して佛に順じたてまつる。
三毒熾盛の怨敵、一業所感の罪人、強剛にして他国を滅ぼし、暴悪にして仏神を軽んずれば、大菩薩降伏し給ふゆえに、結縁の始めとなり、得脱の因を貯るを、凡夫の眼には殺生と見るなり。西宮大明神、沖に出て釣りをしたまふゆえ(事代主は美保崎で釣りをされていました)、業力かぎりあって只今とても死すべき魚を神通をもって鏡とおさせ給ひて、大悲の網に懸けて生死の海を救ひださせ給ふなりとあり。
誠三時決定の業報は遁るべきことなければ、瑠璃王の釈迦如来の御一族を亡ぼさんとせし時、五百の釈子達、強兵にて六十里八十里乃至一由旬までおよべり。瑠璃王、この弓勢に恐れて引退くとき、大臣告げて云く、「五百の釈子はさながら五戒を持給えば討ち殺し給はんことはよもあらじ。只責めたまへ」と勧めしかば直破りに寄りたり。釈子達は「無力。縦い命は終わるとも、殺生戒をば破らじ」と各々謂ひて、敵を討ち殺すことなし。瑠璃王思いの如く打ち入りて、五百の釈子を失けり。目連これを悲みて、一人を取て鉢の中に押し込めぬ。梵天に隠し居られしかば、敵の手にはかからねど鉢の中にて頸切りぬ。瑠璃王過去に大魚の身に有りしを、五百の童子共打ち殺しおわりぬ。この五百人の童子は今の釈子なり。酬因感果の故なれば、目連の神通も助けず。力及ばざることなり。教王釈尊も五百の童子の内にて首を少し打ちたまひぬ。その業たちまち至りて御頭響痛にき。二種生死離れたる三界慈父の佛だに、往因をば免れず。(これは増一阿含経巻第二十六等見品第三十四にあり)
迷惑無慙の賊軍、必死の病に責められ、寿命尽き果て、善根の種なきものを憐れみて悪心を摧破し邪見を退治したまへり。寿限いまだ尽きぬは命奪うことなし。されば建暦元年四月三日の御託宣に「神明は定業の死をば延ばすこと有ると雖も宿命の限りを奪う事無し」とあるぞかし。神明は愚人を罰す。殺さんには非ず。懲らしむためなり。「意巧善のゆえに多功徳を生ず」の義理、「殺害三界不堕悪趣、調伏の為の故に疾く無上正当菩提を證す(理趣経の文、たとえあらゆる生物を殺しても悪趣の落ちることはない、邪悪を制するゆえに速やかに菩提を証する)」の文、「唯だ円教の中、逆即ちこれ順」(法華文句記に、「唯だ円教の意は逆即是順なり。自余の三教(さんぎょう)は逆順定(さだ)まるが故に」とあり)の深旨、「実行は内証に相似す」の三種の十悪を心得うべし。しかれば則ち、罰を蒙るも逆縁を結び賞を被るも順縁あるべし。その深き殊勝の巨益は八幡山所の利生なり。(八幡愚童記、終)
(注1、たにやた。しゃれい。しやら。しゃれい。みなてい。そばさちけい。しゃきろうぎゃなん。はらしゃまんど。さらばろぎゃ。さらばさとばなん。あだたい。
くだたい。まかだたい。しゃれい。しゃれい。けいまげうり。けいまにさんにけいましき。けうらび。けうらめい。けいくられい。くらり。くまち。
びしまにまに。まに。しゅしゅびば。あしゃれい。みしゃれい。まびらんま。こぼう。こぼう。おんばざらゆせい(氏名)そわか。しなわち動くものよ。動にして不どうなる者よ。恭謙なるものよ。諸諸の輪身の吉祥相あるものよ。一切の有情のすべての疾病を消除せしめたまへ。香木よ。クナチなる薬草よ。大香木よ。生動するものよ。生動するものよ。雪の峰よ。クララなる薬草よ。悪しき智を持つものよ。特殊の宝寿よ。宝珠よ。強き光あるものよ。不動なるものよ。動きを離れたる者よ。傾動することなかれ。フム。フム。オーン。金剛の如き寿命あるものよ。スヴぁーはー。)
三毒熾盛の怨敵、一業所感の罪人、強剛にして他国を滅ぼし、暴悪にして仏神を軽んずれば、大菩薩降伏し給ふゆえに、結縁の始めとなり、得脱の因を貯るを、凡夫の眼には殺生と見るなり。西宮大明神、沖に出て釣りをしたまふゆえ(事代主は美保崎で釣りをされていました)、業力かぎりあって只今とても死すべき魚を神通をもって鏡とおさせ給ひて、大悲の網に懸けて生死の海を救ひださせ給ふなりとあり。
誠三時決定の業報は遁るべきことなければ、瑠璃王の釈迦如来の御一族を亡ぼさんとせし時、五百の釈子達、強兵にて六十里八十里乃至一由旬までおよべり。瑠璃王、この弓勢に恐れて引退くとき、大臣告げて云く、「五百の釈子はさながら五戒を持給えば討ち殺し給はんことはよもあらじ。只責めたまへ」と勧めしかば直破りに寄りたり。釈子達は「無力。縦い命は終わるとも、殺生戒をば破らじ」と各々謂ひて、敵を討ち殺すことなし。瑠璃王思いの如く打ち入りて、五百の釈子を失けり。目連これを悲みて、一人を取て鉢の中に押し込めぬ。梵天に隠し居られしかば、敵の手にはかからねど鉢の中にて頸切りぬ。瑠璃王過去に大魚の身に有りしを、五百の童子共打ち殺しおわりぬ。この五百人の童子は今の釈子なり。酬因感果の故なれば、目連の神通も助けず。力及ばざることなり。教王釈尊も五百の童子の内にて首を少し打ちたまひぬ。その業たちまち至りて御頭響痛にき。二種生死離れたる三界慈父の佛だに、往因をば免れず。(これは増一阿含経巻第二十六等見品第三十四にあり)
迷惑無慙の賊軍、必死の病に責められ、寿命尽き果て、善根の種なきものを憐れみて悪心を摧破し邪見を退治したまへり。寿限いまだ尽きぬは命奪うことなし。されば建暦元年四月三日の御託宣に「神明は定業の死をば延ばすこと有ると雖も宿命の限りを奪う事無し」とあるぞかし。神明は愚人を罰す。殺さんには非ず。懲らしむためなり。「意巧善のゆえに多功徳を生ず」の義理、「殺害三界不堕悪趣、調伏の為の故に疾く無上正当菩提を證す(理趣経の文、たとえあらゆる生物を殺しても悪趣の落ちることはない、邪悪を制するゆえに速やかに菩提を証する)」の文、「唯だ円教の中、逆即ちこれ順」(法華文句記に、「唯だ円教の意は逆即是順なり。自余の三教(さんぎょう)は逆順定(さだ)まるが故に」とあり)の深旨、「実行は内証に相似す」の三種の十悪を心得うべし。しかれば則ち、罰を蒙るも逆縁を結び賞を被るも順縁あるべし。その深き殊勝の巨益は八幡山所の利生なり。(八幡愚童記、終)
(注1、たにやた。しゃれい。しやら。しゃれい。みなてい。そばさちけい。しゃきろうぎゃなん。はらしゃまんど。さらばろぎゃ。さらばさとばなん。あだたい。
くだたい。まかだたい。しゃれい。しゃれい。けいまげうり。けいまにさんにけいましき。けうらび。けうらめい。けいくられい。くらり。くまち。
びしまにまに。まに。しゅしゅびば。あしゃれい。みしゃれい。まびらんま。こぼう。こぼう。おんばざらゆせい(氏名)そわか。しなわち動くものよ。動にして不どうなる者よ。恭謙なるものよ。諸諸の輪身の吉祥相あるものよ。一切の有情のすべての疾病を消除せしめたまへ。香木よ。クナチなる薬草よ。大香木よ。生動するものよ。生動するものよ。雪の峰よ。クララなる薬草よ。悪しき智を持つものよ。特殊の宝寿よ。宝珠よ。強き光あるものよ。不動なるものよ。動きを離れたる者よ。傾動することなかれ。フム。フム。オーン。金剛の如き寿命あるものよ。スヴぁーはー。)