福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

正倉院展

2019-10-26 | おすすめ情報
正倉院展が開催されているようです。
正倉院は光明皇后が聖武帝の遺品を修めるためにおつくりになったところです。ここで強調したいのは聖武天皇・光明皇后ともに日本の基礎をお作になったかただということです。
神皇正統記には「第四十五代、聖武天皇は文武の太子。御母皇太夫人藤原の宮子、淡海公不比等の大臣の女也。豊桜彦の尊と申。をさなくまししによりて、元明・元正まづ位にゐ給き。甲子年即位、改元。平城宮にまします。此御代大に仏法をあがめ給こと先代にこえたり。東大寺を建立し、金銅十六丈の仏をつくらる。又諸国に国分寺及国分尼寺を立て、国土安穏のために法華・最勝両部の経を講ぜらる。又おほくの高僧他国より来朝す。南天竺の波羅門僧正〈 菩提と云ふ 〉、林邑の仏哲、唐の鑒真和尚等是也。真言の祖師、中天竺の善無畏三蔵も来給へりしが、密機いまだ熟せずとてかへり給にけりともいへり。此国にも行基菩薩・朗弁僧正など権化人也。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をば四聖とぞ申伝へたる。此御時太宰少弐藤原広継と云人〈 式部卿宇合の子なり 〉謀叛のきこえあり、追討せらる〈玄昉僧正の讒によれりともいへり。仍霊となる。今の松浦の明神也云々 〉。祈祷のために天平十二年十月伊勢の神宮に行幸ありき。又左大臣長屋王〈 太政大臣高市王の子、天武の御孫なり 〉つみありて誅せらる。又陸奥国より始て黄金をたてまつる。此朝に金ある始なり。国の司の王、賞ありて三位に叙す。仏法繁昌の感応なりとぞ。天下を治給こと二十五年。天位を御女高野姫の皇女にゆづりて太上天皇と申す。後に出家せさせ給。天皇出家の始也。昔天武、東宮の位をのがれて御ぐしおろし給へりしかど、それはしばらくの事なりき。皇后光明子もおなじく出家せさせ給。此天皇五十六歳おましき。」とあります。
なお東大寺は聖武天皇が「世界戒壇」を作ろうとされたのであるとの田中智学の説もあるくらいです。


「光明皇后の悲田院施薬院」という論文がありました。ここでは私が探していた「光明皇后と阿閦如来伝説」が正倉院『東南院文書』にあると書かれていて出典を知ることが出来ました。以下の様に書かれてあります。「施浴伝説とは,皇后がある夜,仏の啓示によっ て浴室をたて,親しく千人の垢を摺りとることを 誓願せられ,乞食や病人を招いて日夜熱心に勤め られたが,最後の千人めに,見るからにひどいら い患者がきて,異様な臭気が浴室に充満した.皇 后は意を決して背中の垢を摺ることになり,おわ ると患者は自ら阿閦仏の化身であることを明らか にし,浴室は光明と香気にみち,その姿は消えて しまった.そこで皇后はこの地に伽藍をたてて阿 閦寺と号した,というものである.この施浴の話の初出は正倉院『東南院文書』 (1165)の僧珍慶 が東大寺に浴室の費用を賄う田地を施入した寄進 状にある.つぎに『建久御巡礼記』 (1191)法華 寺の条にみえ,平安時代後期には成立したものと 思われる.鎌倉時代には虎関師錬の仏教史書『元 亨釈書』にらい病患者の膿を吸い取ったという話 が付会され,後世によく知られるようになった. 洗浴に関する仏典として,『佛説温室洗浴衆僧経』 や『金光明最勝王経』の「大弁才天女品」 , 『華厳 経』「浄行品」 , 『 (増一)阿含経』 , 『十誦律』 , 『四 分律』 , 『法苑珠林』巻33第8洗僧部(仏教大百 科辞典,唐668年,道世撰述)などがある。」
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