我々が花が見えるというのは、花が見えているという意識が起こっているのです。
この意識はどこから起こってくるかというと、阿頼耶識から起こっています。阿頼耶識は眼、耳、鼻、舌、身、意、末那識、のさらに奥にある識です。この阿頼耶識がすべてをつくり出し、見せているのです。そして阿頼耶識の中の『種子(しゅうじ』にはいままでその人が生死輪廻して作り出したすべての業が蓄えられているのです。そしてこの業には「共業(集団業)」と「不共業(個人業)」があります。われわれが今共通に体験していることはこの集団で蓄積してきた共業種子が縁でつくりだしているものなのです。
「大乘法苑義林章師子吼鈔 」には「不共業種子に由って増上縁と爲り、不共相種現行を得る。共業種子に由って増上縁と爲り、共相種子現行を得る。(不共業種子が増上縁と爲り個人の環境をつくり、共業種子が増上縁と爲り共通の環境を作る)・・」とあります。つまり、今後の個人の運命は今まさに作りつつある業により阿頼耶識の中につくられている不共業種子によりきまってくるものであり、我々の集団の今後の運命は今まさ集団で蓄積しつつある共業種子によるということです。ここで「業」はなにも行為のみでなく「思業」も有ります。思うだけでも善業となったり悪業となったりします。十善戒の最後に「不邪見」がありますが邪見をおこさないということも悪い共業を作らないという意味で全体の運命に大きな貢献をするのです。皆が清浄な心を持ち、いい行いをすればそれは共業種子として阿頼耶識のなかにしっかりと蓄えられこの国の運命を好転させることができるのです。
この意識はどこから起こってくるかというと、阿頼耶識から起こっています。阿頼耶識は眼、耳、鼻、舌、身、意、末那識、のさらに奥にある識です。この阿頼耶識がすべてをつくり出し、見せているのです。そして阿頼耶識の中の『種子(しゅうじ』にはいままでその人が生死輪廻して作り出したすべての業が蓄えられているのです。そしてこの業には「共業(集団業)」と「不共業(個人業)」があります。われわれが今共通に体験していることはこの集団で蓄積してきた共業種子が縁でつくりだしているものなのです。
「大乘法苑義林章師子吼鈔 」には「不共業種子に由って増上縁と爲り、不共相種現行を得る。共業種子に由って増上縁と爲り、共相種子現行を得る。(不共業種子が増上縁と爲り個人の環境をつくり、共業種子が増上縁と爲り共通の環境を作る)・・」とあります。つまり、今後の個人の運命は今まさに作りつつある業により阿頼耶識の中につくられている不共業種子によりきまってくるものであり、我々の集団の今後の運命は今まさ集団で蓄積しつつある共業種子によるということです。ここで「業」はなにも行為のみでなく「思業」も有ります。思うだけでも善業となったり悪業となったりします。十善戒の最後に「不邪見」がありますが邪見をおこさないということも悪い共業を作らないという意味で全体の運命に大きな貢献をするのです。皆が清浄な心を持ち、いい行いをすればそれは共業種子として阿頼耶識のなかにしっかりと蓄えられこの国の運命を好転させることができるのです。