證發心とは淨心地より菩薩究竟地までなり。何れの境界を證するや。所謂く眞如なり。轉識に依るを以て説いて境界となすも、而も此證には境界あることなし。唯だ眞如智のみなり。名ずけて法身となす。是の菩薩の一念の頃において能く十方の無餘世界に至りて、供養諸佛・請轉法輪は唯だ衆生を開導利益せんためのみにして、文字に依らず、或は地を超えて速に正覺を成ずることを示すは、怯弱なる衆生の為なるをもっての故なり。或は我は無量阿僧祇劫において當に佛道を成ずべしと説くは、懈慢なる衆生の為なるを以ての故なり。能く是の如きの無數方便を示すこと不可思議なり。而も實は菩薩種性として根は等しく、發心は則ち等しく、證するところも亦た等しくして、超過の法あることなし。一切の菩薩は皆な三阿僧祇劫を経るを以ての故なり。但だ衆生と世界は不同にして所見・所聞・根・欲・性とも異なるに随うが故に、所行を示すことも亦た差別あるのみなり。
(證發心というのは菩薩の位でいうと淨心地より菩薩究竟地までに該当する。この段階は証して発心すると呼ばれるが、一体何を証するのか、それは真如を証するのである。証するというのは真如は一応日常的な主観の働きによって知る限りは対象と呼ぶが、実際にはその対象と一体になることなので対象は存在せず、あるのは只真如の智慧のみであってその意味で、法身となずける。。此の段階の菩薩は一瞬に十方世界の諸仏の身許に赴き、供養して説法することを請うが、これはひとえに衆生を導いて利益を得させたいとの願いからである。ある場合には文字に依らずに直ちに正覚を示すこともあるが、これはひるむ意志薄弱な衆生を励ますためである。或は逆に「無量劫に修行してはじめて覚りを成ずるであろう」というのは怠け者の衆生を叱る為である。このように無数の方便を示すのであるがどの菩薩も機根に関しては同じであり、発心も覚りも同じであり、とびむけた性質をもつわけではない。菩薩としては一様に覚るまでに三劫を要するのである。ただ衆生・世界は
見ところ・聞くところ・根・欲・性とも異なる故にその所行を示すことも亦た異なるのである。)
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