福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観音霊験記真鈔6/33

2024-04-06 | 諸経

観音霊験記真鈔6/33

西國五番河州葛井寺千手の像、御長座像五尺二寸159㎝也。

釋して云く、従来千手の像の義を講ずると雖も未だ千手の因縁を挙ず。故に今復明かす。法華普門品の科註直談に曰、千手観音とは過去遠遠の昔千手光常住如来と云へる佛出世し玉ふ。観音此の佛の前に出て發願して云く、我に千手千眼現前せば一切衆生を度すべしと誓願し玉ふなり。而るに誓願如く千手千眼を悉く具足し玉ふ故に其の名を千手観音と云ふ。又千手千眼に限らず頂上に二十七の顔あり。是各各の眼あればなり。經中に千手千眼の因縁を説きて云く、過去久遠の昔、橋婆羅國(きょうばらこく)に偏光童子と云人ありけり。父を和佐大臣と云ひ、母を寶人夫人と云ふ。然るに偏光童子三歳にして父に離れ、五歳にして母にをくれ、漸く侘人の情けに依りて八歳になり玉へる時、父母の恩深きことを知り、即ち其の報恩の為に出家と成り、其の後左の肩より皮を剥ぎ玉ひて、母の為に胎蔵曼荼羅を書き、右の手の肩より皮を剥ぎ父の為に金剛界の曼荼羅を書き、千の燈明・千の香華を以て供養して父母の恩を報じ玉ふ。終に此の功徳に依りて錠光佛出世の時に於いて千手千眼を具足し玉へり。千手は香華供養の徳、千眼は燈明供養の徳に依りて得玉ふ故に、其の名を千手千眼観音と云へりとなり。是の如く宿・の誓願に依りて千手大悲の像と成り玉ふも偏に一切衆生を済度し給はんが為也。其の故は、河内の国葛井寺五尺二寸千手観音の像とは一説に云、聖武天皇の叡願建立の伽藍、行基菩薩の開基の霊場なり。加之(しかのみならず)、平城天皇の御願、阿保新王(平城天皇の第一皇子。在原行平・在原業平の父。高岳新王の兄)の再造の精舎、大政威徳天皇(第四代懿德天皇)影向不断の霊跡、金峰・金剛の両山の肝心葛城の西門也と。其の旨葛城縁起(諸山縁起。大峰山・熊野山・金峰山・葛城山・笠置山などの縁起由緒を記した書。鎌倉初期の成立)にあり。本尊は千手観音也。稽文會・稽主勤(二人共神亀4年(727)大和長谷寺の十一面観音像をつくったとつたえられる。実在性は不明)の正作なり。亦は賢問士・芥子國父子、

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二人の佛師とも書けり。俗には春日の真作ともいへり。謂く、夜夜春日明神現れ出て二人の佛師に指南し玉ふ。故に尒云ふ也。長谷寺の観音の御衣木と同木なりと。即ち楠とも云へり矣。或説に葛井安基

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の願主、行基菩薩の開基なりと。往昔大和國賀留の里に安基と云ひける人あり。邪見にして因果を知らず。或旹河内の國平石の邊にて鹿を狩りけるに、其の山に破れたる堂のありけるに入りて佛壇を取り俎板となし、本尊を破りて薪とし鹿を煮て食す。彼の男、俄然として命終す。妻子是を三日三晩野邊に送らず。然るに安基、又生活(いきかへる)せり。事の故を談りて云く、我死して暗き處を行くに全身火に焼けて難絶(たへがたき)事無限。時に童子一人飛び来たり玉ひ、手を引返し共に閻魔の前に行て此の者を我に與へ玉へと云ふ。炎王罪を勘へて、是は佛を破りて焼き、堂を穢す、逆罪逃るべきに非ずと云ふ。童子重ねて云く、是は罪人なりと雖も、御堂焼けたりし木を引て長谷寺に入りし者にて、大聖に縁深し。速やかに閻浮に歸し玉へと種々に乞玉ひし時、炎王坐より降りて我を禮し、娑婆に帰すと云玉へば、活生せり、とぞ談りける。彼の童子は長谷寺の観音菩薩なり。其の後、葛井安基、長谷寺に詣で又都に登り、行基菩薩の弟子と成り剃髪染衣して益々出家相続し奇瑞あって長谷の観音を彫刻せし霊木の餘を以て此の千手の像を成就す。此の由、聖武帝の叡聞に達し行基菩薩開基とならせられ帝王、河内國平石の邊に一宇を建立し玉ひ、大悲像を此の寺に安置し玉ひて日々に霊験あらたにまします也。葛井の安基が因縁に依りて俗に葛井寺と申せども、實には金剛寺と號すと也。

歌に

「参るより頼りを懸る葛井寺 花の臺に紫の雲」

私に云ふ、歌の意は葛井寺を云はん詞の縁に懸けるとはいへり。又寺に花の臺、臺に紫の雲、皆詞の縁を以て詠ずる和歌の法なり。其の意自ずから知れり。

次に裏の意は、「参るより頼みを懸ける」等の意は観音菩薩を頼り奉りて往経樂邦する事上の句に自ずから見へたり。下の句の「花の臺」等とは蓮華化生の意なるべし。「紫の雲」とは臨終の砌、紫雲たなびき佛の来迎にあずかる意を含めり。

問、臨終の砌、紫雲靉く事何れに經証ありや。

荅、曼荼羅の九品の佛来迎引接、共に紫雲に乗ずる是也。但し此の紫雲に付きて一大事の口伝あり。明師に聞くべし。所詮此の歌は即得往生の義を詠じ玉ふと意得ふべし已上。

古今の歌に

「紫の雲の林を見渡せば 法に樗あふちの花 咲に梟けり」

(紫の雲のはやしを見わたせば法(のり)にあふちの花さきにけり。肥後。五月許(ばかり)に、雲林院の菩提講に詣(まう)でてよみ侍りける。新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1929)

又玉葉集法然上人の歌に

「柴の戸に 明け暮れ懸かる白雲を いつ紫の雲と見成さん」

西國の歌と引き合わすべし。

 

 

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