福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんが先日の江戸33観音東京10社参拝記をつくってくださいました、その5(最終版)

2015-07-15 | 開催報告/巡礼記録


午後12時40分。問屋町で有名な馬喰町界隈は、恒例の問屋位置で、大勢の人で賑わっていました。その賑やかな様を、遠目で見ながら、両国に向かいます。両国橋を渡り、町にはいります。


江戸三十三観音第四番札所 諸宗山無縁寺 回向院 東京都墨田区両国Ⅱ-8-10 安置 馬頭観世音菩薩 宗派 浄土宗


回向院は、明暦3年[1657年]振袖火事の名で知られる大火があり、市街の6割以上が、焦土となり、10万人以上の人命が失われました。そして、この大火でなくなった人たちは、身元不明の人たちが大半をしめたといいます。このため、江戸幕府は、無縁の人々の亡骸を、手厚く葬るようにと、隅田川の東岸、現在地に土地を与え「万人塚」という墳墓を設けました。このとき、徳川家の菩提寺・増上寺の23世・遵譽上人に命じて、無縁仏の冥福を祈る大法要を行いました。この、お念仏を行じる為に堂宇が、建立されたのが、同宇の始まりです。遵譽上人は、無縁の人々の宗旨が様々であることを配慮して、敢えて、1宗1派にとらわれずに無縁供養を行うお寺にするため、「諸宗山無縁寺回向院」と寺名をつけました。開基の精神は、二世(中興始祖)信誉上人に受け継がれ、現在に続いています。


同寺には、、火災・風水害・震災・水難・などで、横死した無縁仏を葬る慣わしが、幕府や市民の間にうまれ、「御府内総檀家」の寺と、日本一の無縁寺として発展してゆきました。また、同寺は、秘仏の帳を開き、御仏と信者との結縁の機会を設ける「開帳寺」として、江戸庶民にしたしまれてきました。同寺の出開帳は、江戸時代を通じて166回ありましたが、これは、江戸の出開帳の総数の四分の一にあたり、同寺が、開帳場所の筆頭格でした。


こうして、回向院の境内には、天災・地災・海難などで亡くなられた無縁の亡魂を供養する無縁供養塔が,至るところにたっています。「三界万霊塔」「明暦大火横死者追善供養塔」「安政大地震横死者供養塔」「関東大地震横死者の墓」「海難供養碑」「刑囚牢病死者供養塔」「水子塚」。また、嬉しいことには、人間の弔いもさることながら、動物の慰霊碑や供養碑も沢山あることです。猫の報恩伝説で知られる「猫塚」「唐犬八之塚」義大夫協会の「犬猫供養塔」飼鳥獣商協同組合の「小鳥供養塔」邦楽器商組合の「犬猫供養塔」があります。諸動物の供養が行われるようになったのは、開山二世・信譽上人にご縁があったといわれています。将軍家綱公の愛馬が死亡し、その亡骸を、同寺に葬られることになり、馬頭堂を建立、信譽上人みづから獅子無畏馬頭観世音を彫刻し安置して供養を行なったと伝えられています。これが、今日まで、連綿と続いている供養なのです。(講元は2011年3月東日本大震災の直後にここで被災者供養をしています)

ほかに、江戸の義賊、「鼠小僧次郎吉」や理髪業の元祖とされる「天下の黒市」こと奥村市蔵[1841~1912]、人形浄瑠璃に「義大夫節」一派を開創した初世竹本義大夫[1651~1714]歌舞伎二世中村勘三郎[1647~1674]らの墓もあります。いずれにせよ、この世に生きる命あるものの霊魂を大切に扱い供養し、追慕すると言う、優しく、穏やかな美しい心が漂っている、神妙な空間が現実にあるということです。うれしいことです。これは、何事にも変えがたい本日の巡拝での大収穫?でもありました。


また、回向院は、勧進相撲が始めて、境内でおこなわれたところです。明和5年[1768年]。そして、天明元年[1784年]から、相撲史上の黄金時代と言われた寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は、回向院とされてきました。日本の国技である相撲は、江戸時代には、公共社会事業の資金集めの寄付相撲と言われる、勧進相撲興行の形態をとっていました。天保4年[1833年]から、春秋二回の興行の定場所になりました。明治42年に、同寺の境内に、常設舘になる旧両国国技館が建設されました。それまでの、76年間、小屋掛けによる回向院相撲の時代がつずいたのです。境内には、「力塚」と刻まれた大きな石碑があり、さらに、四つの相撲石碑があります。


御詠歌 みほとけの じひのひかりに てらされて まんにんつかに もうで くるひと


こうして、この日の巡拝行は、無事終了しました。午後1時35分でした。雨は、すっかりあがり、太陽の日がさしてきました。江戸三十三観音霊場・東京十社の巡拝行は、古い江戸時代にタイムスリップした思いがけない様な感 じがします。日ごろ、高層ビルが立ち並び、大群衆の雑踏と喧騒、大道を行きかう数珠のような車の列、近代文明の恩恵に浴している私には、これまで、想像だけでなく、ただ、「昔のこと」と、一時の関心を持つだけで終わっていた江戸時代でしたが、こうして寺社仏閣を回っていると、否が応でも、江戸時代の風情を想像し、セピア色の映像を脳裏に再現させねばなりません。現在は、高層ビル街であるところも、100年前までは、せいぜい二階建ての木造建築の建物が高い家で、あとは、平屋長屋が密集していたと思いますまた、下町は、海岸が迫ってきていて潮風が吹きつける砂浜が広がっていたでしょう。想像力をひろげねばなりません。同時に、江戸時代の様子が、少しずつ解かってくるようになりました。そして、江戸時代の人たちの生き様、生活をも考えるようになりました。江戸時代に生きた人たちも、今の私と同じように、悩み、苦しみ、悲しみがあったはずです。そして、苦しみを解消するために、仏を「素直に信じ」仏道の修行に勤しんだに違いありません。今よりも、劣悪な生活環境で有ったはずです。温水もなければ、クーラーもなし、ウオシュレットは勿論、スマホもありません。しかし、生活の時間は、余裕があり、アクセク、ギスギス、する事のない、生き方が出来たのではないでしょうか?貧困は昔も今も存在します。しかし、昔の人たちは、素直に神仏の力を信じて、心の安らぎを持つことが出来たのではないかと思いました。(角田記)

神仏を一体として拝むことは明治以前の日本人の常識でした。日本の国体は千数百年来この神仏一体の信仰の上に築かれてきました。中国・朝鮮半島・ロシア等に取り囲まれ日本はかってない厳しい国際環境に曝されている中で再度神仏一体の信仰を取り戻し国の深層の精神基盤を再構築することこそ個人と国がともに救われる第一歩ではないかと考え、関西の神仏霊場会の顰に倣ってこの江戸33観音・東京10社をセットで参拝することにしました。・・講元)
(注)参考文献

大観音寺、回向院 同寺発行のパンフレット

大安楽寺 東京都製作の建て札など
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