いまままで西行法師についてはそのあまりの世俗的有名さに若干反発していました。
・たとえば四国遍路をしていた時、81番白峰寺の境内には「崇徳天皇御廟所 四国81番綾松山白峰寺略縁起」と書かれた掲示板がありました。 それによると「
・・・仁安元年神無月西行は四国修行の途次一夜法施読経し奉ると御廟震動して崇徳院現前して一首の御歌を詠ぜられて「松山や波に流れてこし舟の やがて空しくなりにけるかな。」(新古今)
西行涙を流して御返歌に「よしや君昔の玉の床とても かからん後はなににかはせむ。」(山家集)と詠じ奉ると御受納くだされたか峰峰鳴動した。」とあります。幸田露伴の作品にもあったとおもいます。このくだりは「雨月物語」「山家集」謡曲「松山天狗」「椿説弓張月」など多くの古典で有名です。
・また全国いたるところでいまもって西行法師の足跡を記念碑にのこしています。高野山の山上伽藍には西行桜というのがありますし、また数年前にお参りした弘川寺には西行の終焉の地ということで西行記念館までありました。
・吾妻鑑ではときの権力者源頼朝と会談したりもしています。
・そして極めつけは、後鳥羽院に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり(後鳥羽院御口伝)」とほめられているのです。
こういうことから出家していながらあまりに世俗にもてはやされすぎと若干反感を抱いていたのですがこのほど、もてはやされた理由がわかりました。
それは「明恵上人伝」を読んでいた時、次のような西行の言葉に出会ったからです
「西行法師つねに来たりて物語して曰く『・・我虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どるといえども更に蹤なし、この歌すなわち如来の真の形体なり。されば一音読み出でては一躰の仏像を造る思ひをなし、一句を思い続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。われこの歌によりて法を得ることあり。・・』」というのです。
(この考えで行くと、本来我々の一挙手一投足も仏様を造るきもちでいなければならないのでしょう。)