福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観音霊験記真鈔9/33

2024-04-09 | 諸経

観音霊験記真鈔9/33

観音霊験記真鈔巻の二

西國八番和州長谷寺十一面の像。御身長二丈六尺9m

釈して云く、西國二番目に於いて十一面の名義を沙汰し畢る。此には十一面の佛名を釋するなり。

問、古来の傳説、十一面観音の略頌曰、右大(大日)釋(釈迦)文(文殊)、左不(不動)虚空(虚空蔵)地(地蔵)、後勢(勢至)弥勒眉弥(弥勒)、頂藥(薬師)と云ふ。今此の十一面經相違せり。前に挙る所の第二番目の紀三井寺の下、玄奘所訳の十一面と相違するなり。何れを以て正と為せんや。

答、既に十一面の説は經文、玄奘所譯の十一面經なり、明白也。難者の頌は唯人の所述なり。信用しがたし。夫れ頌の意は、頂上に十一面を配立し、本体の一面を加て十一面と為すと見へたり。是非也。經説(玄奘所譯の十一面經)は唯観音の頂上に十一面を頂戴する故に十一面と云ふ。本体を加へず。若し本体の一面を加へば十二面なるべし。其の上十一面經四部四譯中に十佛に配立したる説なし。按ずるに彼の頌者は只十一面とばかりありて、何れの佛も無き故に、自己の料簡を以て尒(しか)云歟。唯經説に依るべし。玄奘所譯の經文に云、當前の三面は慈悲の相に作れとは(十一面神呪心經大唐三藏法師玄奘奉「其像作十一面。當前三面作慈悲相。左邊三面作瞋怒相。右邊三面作白牙上出相。當後一面作暴惡大笑相。頂上一面作佛面像」)、謂く慈悲は抜苦與楽を云ふ、是観音の内証を外相に顕はし玉ふ示現の相なり。故に請観音經に云、一切如来の大慈悲は皆一體の観世音に集まる。八寒八熱の奈落迦も大悲一人代はりて苦を受く(諸回向清規に「百箇日 平等王 觀音大士 sa 卒哭忌○唵阿盧力迦娑婆訶○昔在靈山名法華。今在西方名彌陀。娑婆示現觀世音。三世利益同一體○一切如來大慈悲。皆集一體觀世音八寒八熱奈洛伽。大悲一人代受苦」)。此の故に一切大慈悲を宰さどり玉へる観世音なる故に慈悲の相とは全くこの観音を云也已上。

私に云く、若し此を講談せば第二番目の縁起を開て曲しく釈すべし。又云、頂上の佛に付きて彌陀なるべしと云事あり。次の段に至りて委く明かすべし。

西國八番大和國長谷寺は比丘道明沙弥徳道則ち法道仙人と共に力を合わせ建立せり。其の像の木は江州高嶋郡(湖西地域)三尾の山より流れ出る霹靂の木なり。此の木の至る所、病あり。和州葛下郡(奈良県葛下郡)上河の浦に流れ来る。道明此の木を取りて佛像を刻んとするに價なし。木を禮拝して祈る時に藤房と云者あり。帝に前奏して和州の稲三千束を賜ふ。即ち十一面観音の像を刻む。高さ二丈六尺。佛師稽主薫稽文會二人して此れを作ると也。或人の云く、此の木は昔辛酉の洪水に近江の国高嶋郡三尾の碕より流れ出る橋木也と。至る所火災疾病あり。和州(奈良県)葛下郡(かつげぐん。大和高田市、葛城市付近)出雲の大満と云ふ人、此の木の事を聞き及んで必ずしも(ママ)霊木と思ひ願望を立て十一面の像を刻まんとするに大木なれば容易く上らず。縄をかけて是を引くに軽き事木の端の如し。遂に和州代下の郡當麻の郷(大和国葛城下郡當麻郷(奈良県香芝市))に到る。幾程なくして彼の大滿と云ふ人命終るなり。此の木徒に八十年を経る。其の村里疫亦起こる。村人此の木を牽いて長谷の川上に捨る。又三十年を過ぎて沙弥徳蓮と云ふ者あり、佛像を刻まんとするに力なし。朝暮此の木に向ひて悲泣礼拝す。時に藤房(藤原房前)、勅を受けて租を與て之を助く。神亀四年727尊像を成就することをなし、行基僧正を頼みて落慶す。始め此の十一面の像を刻まんとする時、徳蓮(徳道の事歟)夢を見る。神人告げて云く、此の山北の土中に大なる石あり。平かにして疵なし。土を掘りて像を立つべし、と。夢覚めて後、彼に往て土を掘るに果たして四方八尺の石の上に足の印あり。十一面像の足と同じ。夢の言の如く観音の像を其の石の上に安置す已上。

以下、今昔物語集に類似の話

今昔物語集巻十一 徳道上人始建長谷寺語 第卅一

今昔、世の中に大水出たりける時、近江の国、高島の郡の前に、大なる木流て出寄たりけり。郷の人有て、其の木の端を伐取たるに、人の家焼ぬ。亦、其の家より始て、郷村に病発て、死ぬる者多かり。是に依て、家々、其の祟を占はしむるに、「只此の木の故也」と占へば、其の後は、世の人皆、其の木の傍に寄る者一人も無し。然る間に、大和国葛木の下の郡に住む人、自然ら要事有て、彼の木の有る郷に至るに、其の人、此の木の故を聞て、心の内に願を発ける様、「我れ、此の木を以て、十一面観音の像を造奉らむと思ふ。然れども、此の木を輙く我が本の栖かへ持亙べき便無ければ、本の郷に返ぬ。其の後、其の人の為に示す事有て、其の人、饗を儲て、人を伴ひて、亦彼の木の所に行て見るに、尚、人乏て徒に帰なむと為るに、「試に縄を付て曳見む」と思て曳に、軽く曳るれば、喜て曳に、道行く人、力を加へて共に曳く程に、大和国葛木の下の郡の当麻の郷に曳付つ。然れども、心の内の願を遂げずして、其の木を久く置たる間に、其の人死ぬ。然れば、此の木、亦其の所にして、徒に八十余年を経たり。其の程、其の郷に病発て、首を挙て病み痛む者多かり。是に依て、亦「此の木の故也」と云て、郡司・郷司等集て云く、「故某が由無き木を他国より曳来て、其れに依て病発れる也。」然れば、其の子宮丸を召出て勘責すと云へども、宮丸一人して此の木を取棄て難し。更に為べき様無れば、思ひ煩ひて、其の郡の人を催し集めて、此の木を敷の上郡の長谷川の辺に曳き棄つ。其の所にして、亦廿年と経ぬ。其の時に僧有り。名を徳道と云ふ。此の事を聞て、心に思はく、「此の木□□)を聞くに、必ず霊木ならむ。我れ、此の木を以て、十一面観音の像を造奉らむ」と思て、今の長谷の所に曳移しつ。徳道、力無して、輙く造奉らむに堪えず。徳道、哭々(なくなく)七八年が間、此の木に向て礼拝して、「此の願を遂げむ」と祈請す。其の時に、飯高の天皇、自然ら此の事を聞し食して、恩を垂給ふ。亦、房前の大臣、力を加へ給て、神亀四年と云ふ年、造給へり。高さ二丈六尺の十一面観音の像也。而る間、徳道、夢の中に神在まして、北の峰を指て、「彼の所の土の下に、大なる巌有り。早く掘り顕はして、此の観音の像を立奉れ」と見て、夢覚ぬ。即ち行て掘るに、夢の如く大なる巌有り。広さ長さ等くして、八尺也。巌の面の平なる事、碁枰の面の如し。夢の教の如く、観音を造奉て後、此の巌の上に立奉れり。供養の後、霊験国に余りて、首を挙て参る人、必ず勝利無しと云ふ事無し。凡そ此の朝にしも非ず、震旦の国まで霊験を施し給ふ観音に御ます。今の長谷と申す寺是也。専ら、歩を運び心を係け奉るべしとなむ語り伝へたるとや。」)

此の観音の権與亦霊験の事、曲しくは長谷寺観音霊験記に見へたり。繁きを以て之を略す。往て見るべし。歌に

「幾度茂参留心輪長谷瀬寺山も誓茂深き谷川」(いくたびも参る心ははつせ寺 山も誓いも深き谷川)

私に云く、歌の意は此の寺に度たび参りても殊勝なる霊地なれば初めて参りたる心地すると云掛けて、参る心は長谷瀬寺とよむなり。下の句自ら知り易し。次に歌の裏の義理を云はば、上の句の「いくたびのまいる心」等とは観音の浄土に往詣する心中なるべき歟。下の句に「誓も深き」とは此の観音の弘誓の願の大悲深重なることを云ふなるべし。総じて菩薩の四弘誓願ある中に、衆生無邊誓願度と云れて一切衆生を度し盡さんとの誓願なり。故に普門品に云、弘誓深如海、歴劫不思議。註に云、弘誓は即ち四弘の願行なり。行は劫を経、時長く多佛に値ひて浄願を発す已上。今云四弘は総願なり。諸佛に又別願あり。彌陀に四十八願あり。薬師に十二願、又釈迦に五百の大願(『悲華経』『五百大願経』)ある等なり。今此の観音も別しては我が名号を唱へた衆生は浄土に引導せんとの深き誓ひあり。思て知るべし已上。信生法印の歌に

「よしさらば 我とは指さじ 海士」(あま)小船 みちくるしほの 波にまかせて」

(後拾遺集 信生法師

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwj7qaOEqLGEAxXLklYBHdXEBgEQFnoECA8QAQ&url=https%3A%2F%2Fwww.tochigi-edu.ed.jp%2Ffurusato%2Fdetail.jsp%3Fp%3D161&usg=AOvVaw1oBGa9-dzg-Ca7ykSU-x1Z&opi=89978449 )

又聖徳太子の御歌とて

「急げ人、彌陀の御船の通ふ世に のりおくれなば 誰か渡さん」已上。

前の西國の歌の「誓も深き」と云へる(いくたびも参る心ははつせ寺 山も誓いも深き谷川)は弘誓の舟に引き合わせて談ずべし。

 

 

 

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