福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観音霊験記真鈔22/33

2024-04-22 | 諸経

観音霊験記真鈔22/33

西国二十一番丹州穴穂寺聖観音御身長三尺

釋して云く、聖観音とは安養浄刹に御座す處の観音なり。

問、聖観音の聖の字、世上の聖正の二字を用ゆ。邪正ありや。

答ふ、倶舎頌疏に曰く、聖とは正なり。言は心正しければ即ち聖人となる故に云。心正しければ以て邪を避つべし。喩ば日月正しく天にあるときは草木に邪影なきがごとし。故に正は聖と云。宗教録第三十四に見たり(宗鏡録卷第三十四「是知聖者正也。心正即聖。故云心正可以辟邪。如日月。正當天草木無邪影。故知此心是凡聖之宅根境之原」)。此の故に、聖正二字互いに通用して邪正なし。さて正観音の正の字をくずして見る時は一に止まると書く也。圓覺經疏抄に云、陰陽の二を分たず、故に一と云矣。

此の判釋より見れば一の字は未分の義なるが故に今此の正観音と云ふは六観音の未分本身の観音なること見著なり。此の正観音つねに弥陀の浄刹に御座と云へども大悲の薩埵なれば六道を化せん為に多身を現じ衆機に應じて松葉には細かく荷葉には圓く、其の為に化済し玉ふと云へども皆是化身なるが故に終に正観音の一に止まり玉へり。喩ば一月天に在りて影萬水に浮かぶと云が如く(圓悟佛果禪師語録「今上皇帝在藩邸時。請陞座。僧問。一月在天影含衆水。一佛出世各坐一華。只如佛未出世時如何。師云。風颯颯地。進云。恁麼則霧起龍吟。風生虎嘯。師云。猶較些子。進云。佛出世後如何。師云。遍界不曾藏」)正観音の一月は常に浄土にありと云へども影は六道に浮かぶなり。次に此の聖観音の御相好は身長八十萬億那由佗由旬なり。身は紫金色にして頂に肉髻あり。項に圓光あり。面各々百千由旬也云々。曲くは観經等に出る(佛説觀無量壽佛經「亦應觀觀世音菩薩。此菩薩身長八十億那由他恒河沙由旬。身紫金色。頂有肉髻。項有圓光。面各百千由旬。其圓光中有五百化佛。如釋迦牟尼。一一化佛。有五百菩薩無量諸天」)。

次に此の観音菩薩所持の蓮華を沙汰せば総じて蓮華は始めて水上にぬきいでわずかに萼をささぐる。則れば華果同時に具足し已に開敷するときは馨香遠く聞へ躰性柔軟にして見る者悦楽し一茎一華枝ならず。蔓にあらず而も濁水遊泥の中より出て臭穢のために染汚せられず。自ら浄潔にして生成鮮明なり。されば一切衆生往詣樂邦の砌、彌陀に先立って蓮華を持ち来り摂取し玉ふは此聖観音にて御座すなり。此の菩薩の頂上に弥陀を戴き玉ふ事前段に曲しく明かすが如し。

西國二十一番丹波國桑田郡穴穂寺御長三尺

聖観音菩薩は宮成願主なり。應和二年(961)に京都に眼清と云へる佛師あり。此の佛師毎日観音普門品を誦すること三十三巻なり。或時丹州宮成と云人此の佛師を呼び下し観音大悲の像を刻む。功畢って宮成作料を出す。宮成つくつ゛く思ふには料足の惜き故に取り返さんとて丹波の大江山の麓に待て佛師の皈るところを打殺し料足をとりて家に還る。其後人の言には此の佛師恙なく京都へ皈り居て佛けを作れりと。宮成これを聞きて不思議に思ひ持仏堂へゆきて見れば我が作らせたる観音の像に多くの疵ありて殊に脇より膿汁ながれ出たり。是はいかなる事ぞと云ふに、此の佛師毎日観音經を三十三巻宛誦む故なり、此の時宮成忽ち道心を発し出家して家を捨て寺と作して菩提寺と號し今の観音菩薩を案安置すと云々。

歌に

「かかる身に 生まれあふみの あなうやと 思はで頼め十聲一聲」

私に云く、歌の意は上の句はかかる苦み多き浮世にむまれあふと儘よ憂しと思はず、唯彌陀を頼みて念佛すべしとなり。故に「生れあふみ」と枕詞をつつ゛けたる也。下の句は善導の釋に下十聲一聲等に至るまで定めて往生を得矣(往生禮讃偈 ・善導集記「今信知彌陀本弘誓願。及稱名號。下至十聲一聲等。定得往生」)。此の意(こころ)歌によくかなへり。空也上人の歌に

「一聲も南無阿弥陀仏と云ふ人の 蓮(はちす)の上に 至らぬはなし」(拾遺和歌集)

圓光大師の歌に

「妄念のまろふど人はあらばあれ 南無阿弥陀仏は主なりけり」

 

 

 

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