福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

ローマ教皇訪日で広島では各宗派の代表が挨拶

2019-11-26 | 法話
ローマ教皇訪日で広島では各宗派の代表が挨拶されているシーンがありました。
これを見て改めて日本で発達した「曼荼羅」や「本地垂迹」思想はあらゆる宗教を救うシステムではないかと思いました。つまり曼荼羅の中心にそれぞれ信仰する宗派の教祖様をすえて、他の宗教の教祖は自分の信じる教祖の変化身であるとすればよいのです。

胎蔵曼荼羅は中心に大日如来様がおられ周囲には無数の仏、菩薩、明王、天、二十八宿、十二宮、八部衆、死神、死鬼まではいっています。これらの中には大黒天様・聖天様・弁才天様などヒンズー教の神々も多いのです。しかしすべての曼荼羅の諸尊は中央の大日如来様の変化であるとされます。そして大日如来は宇宙の真理そのものなのです。したがって宇宙の真理ですからどんな神がはいってきてもいいのです。

また本地垂迹説では「本地」が佛であれば「迹」は神となり、本地が神であれば迹は佛となるのです。この本地にそれぞれが信ずる神をおいて他の宗教の神は迹であると考えればすべての地球上の宗教は存在意義を認められることになります。(宗教に限りません。すべての存在となります。)

こういう考えは決して便宜主義ではありません。宇宙の真理にもとずく考えです。つまり地球上の全てのものは宇宙の法則を同じように受けている根っこは同じ存在であるからです。

こういう常識が通用するようにはやくなりたいものと思っていたら
「權田雷斧大僧正追悼集ー遷化後60年」(大正大学学報)という文献がありました。哲学者井上哲次郎が權田雷斧大僧正の追悼文を書いています。その中に
「・・昨年の暮であったかと思ふ。權田大僧正は耶蘇を曼荼羅の中に入れることにされて而してその趣旨を述べて一首の伽陀をつくられた。それはこういふのである。いはく、
『帰命大聖耶蘇尊、毘盧遮那等流身、為償衆生罪悪故、十字架上代受苦』(衆生の罪悪を償うために十字架上に代受苦された、大日如来の等流法身であるキリストに帰依し奉る)。
これを読んでみると耶蘇は一命を犠牲にして世人の罪を償ったのであるといふ、あの贖罪説を信じて作られたものであった。・・」
とありました。
まさにこれです。
今回広島でローマ教皇に各宗派の代表が挨拶されていましたが今回はローマ教皇が曼荼羅の中心の大日如来の席におられても今度立場を変えればそれぞれの宗派のトップが大日如来の位置に座ればよいのですから。
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