福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

釈雲照律師 訓訳原人論

2023-04-30 | 諸経

釈雲照律師 訓訳原人論 

宗密禅師の略伝

  • 降誕は佛滅後千七百二十七年支那國唐朝第九代皇帝の大歴十四年、果州の西に生れ給ふ。
  • 出家、幼より儒道を修学して業成り、将に貢挙に赴かんとして、偶々遂州の大雲寺の道圓禅師に会遇し、其禅法を味へ遂に剃髪せらる。則ち十二代憲宗皇帝の元和二年、禅師廿九歳の時也。
  • 求法。其後圓覚經を繙き未だ軸を終らずして大に感悟し、尋で清涼國師の華厳疏を覧て一言の下に開通し、更に國師の門に入て華厳の宗派を嗣ぎ大に教禅二學の蘊奥を叩き給へり。
  • 化導。憲宗皇帝の元和十四年韓退之が佛骨の表を上りて佛は夷狄の人、口に先王の法語を言はず、身に先王の法服を服せず。君臣の義父、子の情を知らずと謗し、其他原道等を草して佛教を排斥せんとす。又十五代文宗帝の大和元年、麟徳殿に於いて大に三教(孔老釈)の対論あり。同九年には僧尼の沙汰あり。尋で又、佛寺を毀ち僧尼を還俗せしめ、佛教は漸次に衰へ儒教と道教は之に乗じて勃興の機運に迎へり。此の時に當りて獨り佛教の原底を究め、或は普く名邑大都に遊びて専ら法門の弘通に勤めしは則ち密宗禅師也。
  • 原人論の撰述、其年代詳ならずと雖も是亦他の理由あるに非らず。唯世人が韓退之等の文辞に迷ふて佛教の廣大無邊の眞意を無視し、儒教・道教等の偏淺を執して、以て佛教を破斥せんとするの徒を開導せんと欲するが為なるのみ。
  • 入寂。十六代の武宗皇帝の會昌元年正月六日興福院に於て従容として坐滅せらる。世壽六十有三、戒臘三十四。

 

訓訳原人論竝序 終南山艸堂寺主圭峯蘭若沙門宗密述

日本国苾蒭雲照訓訳

 

  

 

萬靈の蠢蠢たる皆な其本あり。萬物の芸芸(うんうん)たる各の其根に歸す。未だ

根本無くして而も枝末有る者はあらざる也。況んや三才の中の最靈にして而も本源無からん乎。且つ人を知る者は智なり。自ら知る者は明なり。今我人身を禀得たり。而して自ら從來する所を知らず。曷ぞ能く他世の趣く所を知らんや。曷ぞ能く天下古今の人事を知らん乎。故に數十年の中學ぶに常の師無し。博く内外を考へ、以って自身を原(たず)ぬ。之を原ねて已まず。果して其本を得たり。然るに今儒と道を習ふ者、秖(ただ)近きを知るは則ち乃祖乃父傳體相續して此身を受け得たり。遠きは則ち混沌の一氣剖(わか)れて陰陽の二と為り、二、天地人の三を生じ、三、萬物を生ず。萬物と人と皆な氣を本とす。佛法を習ふ者、但云ふ。近きは則ち前生に業を造り、業に隨ふて報を受け此の人身を得たり。遠きは則ち業又惑に従ひ展轉して乃至阿頼耶識を身の根本と為すと。皆已窮むと謂へり。而も實は未だし。然るに孔老釋迦は皆是至聖なり。時に隨ひ物に應じて教を設け、塗を殊にす。内外相資けて共に群庶を利す。萬行を策勤し因果の始終を明し、萬法を推究し、生起の本末を彰はす。皆聖意なりと雖も而るに實あり權あり。二教は唯だ權、佛は權實を兼ぬ。萬行を策し、悪を懲し善を勸め同じく治に歸する時は則ち三教皆な遵行す可し。萬法を推し理を窮め性を盡して本源に至れば、則ち佛教方に決了と為す。

然れども當今の學士、各一宗に執して佛を師とする者に就くに仍ほ實義に迷ふ(性起)。故に天地人物において之を原ねて源に至ること能はず。余、今還た内外教理に依りて萬法を推し窮む。初め淺より深に至り、權教を習ふ者に於いて滯を斥して通ぜしめて其の本を極めしめ、後に了教に依りて展轉生起の義を顯示して、偏を會し圓かならしめて末に至らしむ。      文四篇あり。原人と名くる也。

 

迷執を斥く   第一   

偏淺を斥く   第二

直に眞源を顕す 第三

本末を會通す  第四  

 

 

 

迷執を斥く  第一            

 

儒と道との二教には、人畜等の類、皆是虚無の大道より生成養育すと言ふ。謂く道法より自然に元氣を生じ、元氣より天地を生じ、天地萬物を生ず。故に愚智、貴賎、貧富、苦樂皆天より禀くること時と命とに由れり。故に死後却って天地に歸し其虚無に復すとす。然るに外教の宗旨は但身に依て行を立つるに在り、身の元由を究竟するにあらず、説く所の萬物も象外を論ぜず。大道を指して本と為すと雖も、而も備さに順逆、起滅、染淨の因縁を明かさず。故に習ふ者是れ權なることを知らず。之を執して了と爲す。今略して擧て之を詰せん。言ふ所の萬物、皆虚無の大道より生ぜば、大道は即ち是れ生死賢愚の本、吉凶禍福の基なり。基本既に其れ常に存せば則ち禍亂凶愚除く可からざる也。福慶賢善益す可からざる也。何ぞ老莊の教を用ひんや。又道、虎狼を育し桀紂を胎し顏冉を夭し夷齊を禍す。何ぞ尊と名くるや。又萬物は皆是自然に生化す、因縁に非ずと言はば、則ち一切因縁無き處、悉く生化すべし。謂く石、應に草を生ずべく、草或は人を生じ、人畜等を生ずべし。又應に生ずること前後無く、起つこと早晩無かるべし。神仙、丹藥に藉(よら)ず。太平は賢良に藉らず。仁義は教習に藉らずむば、老莊周孔何ぞ教を立て軌則と為ることを用るや。又皆元氣より生成すと言はば、則ち忽生の神未だ曾て習慮せず。豈に嬰孩にして便ち能く愛惡驕恣することを得んや。若し忽有自然にして便ち能く念に隨ふて愛惡す等と言はば、則ち五徳六藝悉く能く念に隨ふて解せん。何ぞ因縁を待て學習して成ずるや。又若し生は是れ気を禀けて忽ち有り、死は是れ氣を散じて忽ち無ならば、則ち誰か鬼神と為んや。且つ世に前生を鑒達し往事を追憶すること有るときは、則ち知る生前の相續にして氣を禀けて而も忽ち有るに非ず。又鬼神靈知、斷ぜざることを驗るときは、則ち知る死後氣散じて忽ち無なるに非ず。故に祭祀して禱ことを求む典藉文あり。況んや死して蘇する者、幽途の事を説き、或は死後妻子を感動し怨恩を讎報すること。今古皆有をよ。外難じて曰く、若し人死して鬼とならば則ち古來の鬼巷路に塡ち塞がらん。見る者有る可し如何ぞ爾らざるや。答て曰く、人六道に死す必ずしも皆鬼と為らず。鬼死して復た人等と爲る。豈古來の積鬼常に存せんや。且つ天地の氣本無知なり。人無知の氣を禀く安ぞ忽ち起きて知あることを得ん乎。草木も亦皆氣を禀く、何ぞ不知なるや。又、貧富貴賎賢愚善惡吉凶禍福、皆な天命に由ると言はば、則ち天の命を賦する奚(な)んぞ貧は多く富は少に賎は多く貴は少なく乃至禍は多く福は少なきこと有らんや。苟しくも多少の分、天に在らば天何ぞ平らかならざるや。況んや行なくして而も貴く、行守りて而も賎しく、徳無くして而も富み、徳有りて而も貧しく、逆は吉、義は凶、仁は夭、暴は壽、乃至有道の者は喪び、無道の者は興る有り。既に皆な天に由らば天乃ち不道を興して道を喪すなり。何ぞ善に福し、謙に益するの賞、淫に禍し盈に害するの罰あらんや。又既に禍亂反逆皆天命に由らば則ち聖人教を設くるに人を責めて天を責めず。物を罪して命を罪せず、是れ當らざる也。然れば則ち詩に亂政を刺り、書に王道を讃し、禮に安上を稱し、樂に移風を號す。豈是上天之意に奉じ、造化の心に順ぜんや。是に知んぬ此教を専らにする者は未だ人を原ぬる能はず。

 

偏淺を斥(しりぞ)く第二(佛の不了義を習ふ者)        

 

佛教淺きより深きに之くに略して五等あり。一に人天教。二に小乘教。三に大乘法相教。四に大乘破相教。(上の四は此篇の中に在り) 。五に一乘顯性教(第三篇の中に在り)。            

 

一には佛初心の人の為に且らく三世の業報、善惡の因果を説く。謂く上品の十惡を造り死して地獄に堕す。中品は餓鬼、下品は畜生なり。故に佛且らく世の五常の教に類して五戒を持たしめ三途を免ることを得て人道の中に生ず。

 天竺の世教儀式、殊と雖も、悪を懲らし善を勸むるはは別無し。亦仁義等の五を離れて徳行の修すべき有らず。例せば此國には手を歛

めて擧げ、吐蕃には手を散じて垂る。皆禮と為す也。不殺は是れ仁。不盜は是れ義。不邪淫は是れ禮。不妄語は是れ信。酒肉を飮み噉ひせざれば神氣清潔にして智を益す也。

上品の十善及び施戒等を修して六欲天に生じ、四禪八定を修して色、界無色界天に生ず。

題の中に天と鬼と地獄とを標せざるは、界趣同じからず。見聞及ばず。凡俗尚末を知らず。況んや肯へて本を窮めんや。故に俗教に対して且く原人と標す。今佛教を敍す理宜しく具さに列ぬべし。

故に人天教と名つ゛くる也。此教の中に據るに業を見の本と為す。

然るに業に三種あり。一に惡。二に善。三に不動なり。報に三時あり。謂く現報と生報と後報となり。  

今之を詰して曰く、既に造業に由て五道の身を受くとならば、未審かし誰人か業を造り、誰人か報を受くるや。若し此眼耳手足能く業を造らば、初死の人、眼耳手足宛然たり。何ぞ見聞造作せざるや。若し心造すと言はば何者か是れ心ぞ。若し肉心と言はば、肉心質あり身内に繋る、如何んぞ速かに眼耳に入りて外の是非を辨ぜん。是非知らずんば何に因りて取捨せん。且つ心と眼耳手足と倶に質閡と為す。豈内外相通じ運動應接して同く業縁を造ることを得んや。若し但だ是れ喜怒愛惡、身口を發動して業を造らしむと言はば、喜怒等の情は乍ち起り乍ち滅す。自ら其の體なし。何を將って主と為して業を作らんや。設し此の如く別別に推尋すべからず。都て是れ我が此身心能く業を造ると言はば、此身已に死して誰か苦樂の報を受くるや。若し死後更に身ありと言はば、豈今日の身心罪を造り福を修し、他の後世の身心をして苦を受け樂を受けしむること有らんや。此れに據るときは則ち福を修する者は屈甚しく、罪を造る者は幸甚しきなり。如何んぞ神理此くの如く無道なるや。故に知ぬ但此教を習ふ者、業縁を信ずと雖も身の本に達せず。

二に小乘教は説かく、形骸の色、思慮の心、無始より來た因縁力の故に念念生滅して相續窮り無し。水の涓涓たるが如く、燈の焔焔たるが如し。身心假に合して一に似たり、常に似たり。凡と愚とは覺せずして之を執して我と爲す。此我を寶と為する故に即ち貪(名利を貪ぼり以って我を榮す)瞋(違情の境を瞋って我を侵害せんことを恐る。)癡(非理を計校る)等の三毒を起こす。三毒、意を撃ちて身口を發動して一切の業を造る。業成じて逃れ難し。故に五道苦樂等の身と(別業の所感)三界勝劣等の處とを受く。(共業の所感)。受る所の身に於いて還た執して我と爲す。還た貪等を起こして業を造り報を受く。身は則ち生老病死あり。死して而も復た生じ、界は則ち成住壞空あり。空にして而も復た成ず。

空劫より初めて世界を成すとは、頌に曰く、空界大風起り、傍廣數無量なり。厚さ十六洛叉にして、金剛も壞すること能はず。此を持界風と名つ゛く。光音金藏の雲、布て三千界に及び、雨車軸の如く下り、風遏て流を聽さず。深さ十一洛叉なり。始めて金剛界を作る。次第に金藏の雲あり、布て雨其内に滿つ。先ず梵王界乃至夜摩天を成す。風、清水を鼓して須彌七金等を成ず。滓濁は山地と四洲と及び泥犁と鹹海の外の輪圍と為り、方に器界立と名く。時に一増減を経たり。乃至二禪の福盡きて人間に下生す。初め地餅林藤あり、後粳米消せず。大小便利し、男女の形別れ、田を分ち主を立て臣佐を求む。種種差別し十九増減を経たり。前を兼ね總じて二十増減を名けて成劫と為す。議して曰く、空界劫中とは是れ道教は之を指して虚無の大道と云ふ。然るに道の體は寂照靈通にして  是れ虚無ならず。老子或ひは之に迷ひ、或ひは權設して務めて人欲を絶つ。故に空界を指して道と為す。空界の中の大風とは即ち彼の混沌の一氣なり。故に彼れ道より一を生ずと云ふ也。金藏の雲とは、氣形の始、即ち太極也。雨下て流れずとは陰氣の凝る也。陰陽相合して方に能く生成す。梵王界乃至須彌とは、彼の天也。滓濁とは地也。即ち一より二を生ずるなり。二禪福盡きて下生すとは、即ち人也。即ち二より三を生じ、三才備れり。地餅已下乃至種種とは即ち三より萬物を生ずるなり。此れ三皇已前、穴居野處未だ火化有らざる等に當る也。但其時、文字の記載無きを以ての故に後人の傳聞明かならず。展轉錯謬して諸家の著作種種異説するのみ。佛教は又三千世界を通じて明し、大唐に局らざるに縁るが故に、内外の教文全く同じからざる也。住とは住劫二十増減を経るなり。壞とは壞劫亦た二十増減なり。前の十九増減に有情を壊し、後の一増減に器界を壊す。能壞の者は是火水風等の三災、空よは空劫亦た二十増減の中、空にして世界及び諸の有情無き也。

劫劫生生、輪迴絶えず。終無く始無く汲井輪の如し。

道教は只今此世界未だ成ぜざる時の一度の空劫を知りて虚無混沌の一氣等を名けて元始と為すと云ふなり。空界より已前に早く千千萬萬遍を経て成住壞空終りて復始まることを知らず。故に知ぬ佛教法の中の小乘淺淺の教、已に外典深深の説に超たり。

都て此身の本、是れ我ならざることを了せざるに由る。是れ我ならざるとは謂く此身は本色と心と和合して相を為すに因る。今推尋分析するに、色に地水火風の四つ有り。心に受(能く好惡の事を領納す)想(能く像を取るもの)行(能く造作するもの、念念遷流す)識(能く了別するもの)の四あり。若し皆是我ならば即ち八我を成ず。況んや地大の中復衆多あり。謂く三百六十段の骨、一一各別に皮毛筋肉肝心脾腎、 各々相是ならず。諸の心所等亦た各同じからず。見は是れ聞ならず。喜は是れ怒ならず。展轉して乃至八萬の塵勞あり。既に此衆多の物あり。知らず定て何者を取りて我とせんや。若し皆是れ我ならば、我は即ち百千ならん。一身の中に多主紛亂せん。此を離れて外復別の法無し。翻覆して我を推すに皆不可得なり。便ち悟る、此身は但是れ衆縁仮和合の相にして元、我人無し。誰か為にか貪瞋し、誰か為めにか殺盜施戒せん。(苦諦を知る也)。遂に心を三界の有漏の善惡に滯せず。(集諦を断ずる也)但無我の觀智を修し、(道諦)以って貪等を断じ諸業を止息して我空眞如を證得す。(滅諦)。乃至阿羅漢果を得て、灰身滅智して方に諸苦を断ずるなり。此宗の中に據るに色心の二法及び貪瞋癡を以て根と身と器界との本と為す也。過去未來に更に別法の本と爲すなし。今之を詰して曰く、生を經、世を累ねて身の本と為す者は、自體須らく間斷なかるべし。今五識は縁を闕けば起らず。(根境等を縁と爲す)意識は時有りて行ぜず。(悶絶と睡眠と滅盡定と無想定と無想天となり)無色界天は此四大無し。如何ぞ此身を持ち得て世世に絶へざるや。是に知ぬ此教を専らにする者も亦未だ身を原ねず。

三に大乘法相教は説かく、一切有情は無始よりこのかた法爾として八種の識あり。中に於て第八阿頼耶識は是れ其根本なり。頓に根身と器界と種子とを変じて七識を転生す。皆な能く自分の所縁を變現すれども都て實法なし。如何が變ずるや。謂く我なり法なりと分別しつつ薫習せし力の故に諸識の生ずる時に變じて我と法とに似れり。第六七識の無明覆ふが故に此を縁じて執して實我實法と為す。患と(重病に心惛して異色の人物を見る也)夢との(夢想の見る所知るべし)者の患と夢との力の故に、心に種種の外境の相に似て現ずるを夢の時には執して實に外物ありと為すも、寤來て方に唯夢の所變なることを知るがごとし。我身も亦爾り唯だ識の所變なり。迷ふが故に我及び諸の境ありと執す。此に由て惑を起こし業を造りて生死窮まり無し。(廣くは前に説くが如し)此理を悟解せば方に我身は唯識の所變なりと知る。識を身の本と為す。(不了の義は後に破する所の如し)

四に大乘破相教とは前の大・小乘・法相の執を破して密かに後の眞性空寂の理を顕はす。

破相の談は唯諸部般若のみならず徧く大乘經に在り。前の三教は次に依て先後す。此              教は執に随ふて即ち破す。定れる時節なし。故に龍樹は二種の般若を立つ。一は共。二は不共なり。共とは二乘同じく聞て信解す。二乘の法執を破するが故に。不共とは唯菩薩のみ解す。密かに佛性を顕はすが故なり。故に天竺の戒賢、智光、二論師、各三時教を立てて此空教を措くに、或は唯識法相の前に在りと云ひ、或は後に在りと云ふ。今の意は後を取る。     

 

將に之を破さんと欲して先ず之を詰せん。曰く所變の境、既に妄ならば能變の識、豈に眞ならんや。若し一は有、一は無なりと言はば、(此の下却って彼喩を将て之を破す)則ち夢想と所見の物と應に異なるべし。異ならば則ち夢は是れ物ならず。物は是れ夢ならず。寐め

來りて夢滅して其物應に在るべし。又物若し夢に非ざれば應に是れ眞物なるべし。夢若し物に非ずんば何を以てか相とな為ん。故に知んぬ、夢の時は則ち夢の想と夢の物と、能見と所見との殊あるに似たれども、理に據るときは則ち同一の虚妄にして都て所有無し。

諸識も亦た爾り。皆な假りに衆縁に託して自性無きを以ての故に。故に中觀論に云く、未だ曾って一法として因縁より生ぜざるものはあらず。是故に一切の法は是れ空ならざる者はなし、と。又云、因縁所生の法は我れ説く、即ち是れ空なりと。起信論に云く、一切の

諸法は唯だ妄念に依りて差別あり。若し心念を離れば即ち一切境界の相無し、と。經に云く、凡そ所有る相は皆な是れ虚妄なりと。又云く一切の相を離るるを即ち諸佛と名く、と。(是の如く等大乘藏に遍し)。是に知る、心と境と皆空は方に是れ大乘の實理なり。若し此に約して身を原ば元身は是れ空なり。空は即ち是れ本なり。

今復た此教を詰して曰く、若し心境皆無ならば無を知る者は誰ぞ、又若し都て實法無くんば何に依りてか諸の虚妄を現ぜん。且つ現に世間虚妄の物を見るに未だ實法に依らずして而も能く起る者はあらず。如し濕性不變の水無くんば何ぞ虚妄假相の波あらん。若し淨明不變の鏡なくんば何ぞ種種虚假之影あらんや。又前に説く夢想と夢境とは誠に言ふ所の如し。然るに此虚妄之夢は必ず睡眠の人に因る。今既に心も境も皆空ならば未審(いぶかし)何に依てか妄を現ぜん。故に知んぬ此教は但執情を破して未だ明かに眞靈之性を顕はさず。故に法鼓經に云、一切の空教は是れ有餘の説なりと。(有餘とは餘義未だ了ならざる也)大品經に云く、空は是れ大乘之初門なりと。

上の四教展轉相望するに前は淺く後は深し。若し且らく之を習ふて自ら未了なりと知る、之を名けて淺と為す。若し執して了と為すは即ち名けて偏と為す。故に習人に就きて偏淺と云ふ也。

 

 

 

直に眞源を顕はす第三(佛了義實教)        

五に一乘顯性教とは、説かく一切有情に皆な本覺の眞心あり。無始よりこのかた常住清淨にして昭昭として昧からず。了了として常に知る。亦は佛性と名け亦は如來藏と名つ゛く。無始の際より妄相、之を翳して自ら覺知せず。但凡質を認むるが故に躭著して業を結し生死の苦を受く。大覺之を愍んで一切皆空と説き又た靈覺の眞心清淨にして全く諸佛に同じと開示し給へり。故に華嚴經に云く、佛子よ一衆生として如來智慧を具有せずと云ふこと無し、但妄想執著を以て證得せず。若し妄想を離るれば一切智、自然智、無礙智即ち現前することを得。便ち一塵に大千の經卷を含むの喩を挙げて塵を衆生に況し經を佛智に況す。次後に又云く、爾の時、如來普く法界の一切衆生を観じて是言を作さく、奇なる哉、奇なる哉、此諸の衆生、云何んが如來智慧を具有して迷惑して見ざるや、我當に教ふるに聖道を以てし、其をして永く妄想を離れ、自ら身中において如來廣大の智慧の佛と異なることなきを見ることを得せしむべし、と。評して曰く、我等多劫に未だ眞宗に遇はず、反て自ら身を原ぬることを解せず。但虚妄之相を執して甘んじて凡下なり。或は畜、或は人なりと認む。今至教に約して之を原ねて方に本來是佛なることを覚れり。故に須らく行は佛行に依り、心は佛心に契ひ、本に返り源に還り凡習を斷除して之を損し又損して以って無爲に至るべし。自然の應用恒沙なる、之を名けて佛と曰ふ。當に知るべし迷悟は同一の眞心なり。大なる哉妙門の原人此に至れる。            

 然るに佛の前の五教を説き給へるは、或は漸、或は頓。若し中下の機あれば則ち淺きより深きに至り漸漸誘接して先ず初教を説き惡を離れ善に住せしめ、次に二三を説きて染を離れて淨に住せしめ、後に四五を談じて相を破し性を顯し権を會し實に歸し、實教の修に依り乃ち成佛に至らしめ給ふ。若し上上根智なれば則ち本より末に至る。謂く初めは便ち第五に依り頓に一眞の心體を指し、心體既に顯れて自ら一切皆是れ虚妄にして本來空寂なりと覚る。但迷を以ての故に眞に託して起る。須からく眞を悟るの智を以て悪を斷じ善を修し妄を息め真に歸すべし。妄盡き眞圓なる是を法身佛と名つ゛く。

 

            

本末を會通す第四(前に斥く所を會して同じく真源に歸し皆正義と為す)           

眞性を身の本と為すと雖も生起すること蓋し因由あり。端無くして忽ち身相を成すべからず。但前宗未了なるに縁て所以(ゆへ)に節節に之を斥く。今將に本末を會通せんとす。乃至儒道も亦た是なり。

初めは唯第五の性教の所説なり。後段より已去、節級方に諸教に同ず。各註に説くが如し。謂く初めは唯一眞靈の性。不生不滅不増不減不變不易なり。衆生無始より迷睡して自ら覺知せず。隱覆に由るが故に如來藏と名く。如來藏に依るが故に生滅の心相あり。

此より方に是れ第四教亦同じく、此より已下の生滅の諸相を破する也。

所謂不生滅の眞心、生滅の妄想と和合して一に非ず異に非ざるを名けて阿頼耶識と為す。此識に覺と不覺との二義あり。

是より下方に是第三の法相教の中も亦た此説に同ず。

不覺に依るが故に最初の動念を名けて業相と為す。又此念本無なることを覚らざる故に轉じて能見之識を成し、及び所見の境界の相現ず。又此境は但自心より妄の現ずることを覚らずして執して定有と為すを名けて法執と為す。

  此下方に是れ第二の小乘教中も亦た所説に同ず。

此等を執するが故に遂に自他の殊を見て便ち我執を成ず。我相を執するが故に情順の諸境を貪愛して以って我を潤さんと欲す。違情の諸境を瞋嫌して相損惱せんことを恐る。愚癡之情展轉して増長す。

此下方に是れ第一人天教の中の亦た所説に同ず

故に殺盜等の心神、此の惡業に乗じて地獄鬼畜等の中に生ず。又此苦を恐るる者、或は性善なる者あり。施、戒等を行じ心神此善業に乗じて中陰を運して母胎の中に入る。

此の下方に是れ儒道の二教も亦た所説に同ず。

気を禀け質を受く(彼の所説、気を以て本と為すを會す)氣は則ち頓に四大を具し漸に諸根を成ず。心は則ち頓に四蘊を具し漸に諸識を成ず。十月滿足し生じ來るを人と名く。即ち我等今の身心是也。故に知ぬ、身心各其本有り。二類和合して方に一人を成ず。天と修羅等も大に此に同じ。然るに引業に因て此身を受得すと雖も後滿業に由るが故に貴賎、貧富、壽夭、病健、盛衰、苦樂あり。謂く前生の敬と慢とを因と為して今貴と賎との果を感ず。乃至仁は壽ながく、殺は夭し、施は富み、慳は貧し。種種の別報具さに述ぶべからず。是を以って此身に或は惡無くして自ら禍し、善無くして自ら福し、不仁にして而も壽ながく、不殺にして而も夭する等の者あり。皆是れ前生の滿業已に定れるが故に、今世に所作に因らずして自然に然るが如し。外學の者、前世を知らずして但目覩に據て唯だ自然なりと執す。(彼の所説の自然を本とするを會す)       復た前に少きとき善を修し老て悪を造り、或は少きとき惡にして、老ひて善なる有り。故に今世に少きときは富貴にして樂しみ、老大には貧賎にして苦しみ、或は少きときは貧苦にして老て富貴なる等あり。故に外學の者、唯だ否泰(ふさがりひらく)は時と命とに由ることを執す。(彼の所説の皆天命に由ると云ふを會す)然るに禀る所の氣、展轉して本を推せば即ち混一の元氣也。起る所の心、展轉して源を窮むれば即ち眞一の靈心也。實を究て之を言はば心外に的に別法無し。元氣も亦た心の所變に従ふ前の轉識所現の境に屬す。是れ阿頼耶の相分の所攝なり。初の一念の業相より分て心境の二と為る。心既に細より麁に至り展轉して妄に計して乃至業を造り(前に敍列するが如し)境亦微より著に至り、展轉して變起し乃至天地あり。

   即ち彼の始、大易より五重運轉し乃ち太極に至る。太極より兩儀を生ず。彼れ自然の大道と説くは此の眞性を説くが如くなれども其實は但だ是れ一念能變の見分のみ。彼れ元氣と云ふは此の一念初めて動のずるが如くなれども其實は但だ是れ境界の相也。

業既に成熟し即ち父母より二氣を禀受し業識と和合し人身を成就す。此に據らば則ち心識所變の境乃ち二分と成り、一分は即ち心識と和合して人と成り、一分は心識と和合せずして即ち天地山河國邑と成る。三才の中に唯人の靈なるは心神と合するに由る也。佛の説き給へる内の四大と外の四大と同じからずとは正に是れ此也。哀なる哉。寡學にして異執紛然たり。語を道流に寄す。成佛せんと欲する者は必ず須からく麁細本末を洞明して方に能く末を棄て本に歸し心源を返照すべし。麁盡き細除き靈性顯現すれば法として達せざる無きを法報身と名つ゛く。自然の應現窮りなきを化身佛と名つ゛くるなり。

 

訓訳原人論   終        

 

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