福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・12

2024-01-12 | 諸経

妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・12

二に瞋恚を離る。

「若多瞋恚。常念恭敬觀世音菩薩。便得離瞋。」

「若多瞋恚」とは、瞋恚偏増にして過失多き人、自ら其の過を知りて此の悪を滅せんことを希ふなり。釈名を云はば「瞋」とは他を瞋るなり。「恚」とは自ら我が身心を憾みて怒るなり。又、「瞋」は身口に其の色顕れ聲を出す也。「恚」は心に憤て未だ外に彰ざるなり。但し此れも一往あり。通じては三毒の名字皆自他に旦るべし。次に瞋恚の過について云はば、一切の善法功徳を劫(かすめ)る賊は「瞋」に過ぎたるはなし(佛垂般涅槃略説教誡經「瞋恚之害能破諸善法壞好名聞。今世後世人不憙見。當知瞋心甚於猛火。常當防護無令得入。劫功徳賊無過瞋恚。白衣受欲非行道人。無法自制。瞋猶可恕。出家行道無欲之人。而懷瞋恚甚不可也。」)。一念の瞋恚は能く倶胝劫の善根を梵焼す。(大日経)。亦能く自利利他を障ふる過あり。謂く瞋に依りて自心を憂悩せしむるが故に、戒定慧等の万行さらに意に染ることなし。又瞋恚は慈悲を損ずる刀劔なるが故に化他を障ふること理在絶言せり。総じて云ば、瞋恚は世出世に通じて一切を破壊する根本なり。世人は愚痴にして唯劔刀弓箭を恐る。智慧ある人は唯瞋恚を怖る。其の故は刀杖は非情なるが故に自物を損ずることなし。瞋恚を心を以て刀杖を揮ふ時、能く物を害するが故なり。先ず世間に約して云はば、父母を孝養する人も瞋盛んなる時は父母の飢寒を忘れて其の身を亡し、君主に奉事する者も、忿起こる時は主人の厚恩を捨て其の命を失ふ。況や「瞋」に由りて父母に逆ひ、主君に背き妻子を憎み、師長を寃とするをや。次に後世に約せば、天竺の毘流離王は瞋恚はげしきが故に九千九百九十万人の釈種を殺害して血を流して川とせり。剰(あまつ)さへ兄の祇陀太子を殺害し、五百の釈種の女を刑罰して其の手足を載捨て、遂に其の殺業に由って七日の内に眷属と共に一時に死して阿鼻地獄に堕しき(報恩經に出たり)。又罽尼吨王(けいにたおう)は安息國の九億の衆を殺害せしが故に死して千頭の魚と成るに刀劔虚空より下て其頭を載落して、刹那の間に其頭大海に充満しき(付法蔵經)。是等は皆瞋恚強盛なるが故に、百千万劫に無量の苦を受るなり。若し鬼道に入ぬれば或は燃然鬼と成りて遍身に火然(もゆる)。或は食炭鬼と成て、人を食はんことをのみ謀る。若し畜生に入ぬれば師子・虎狼・熊・羆・狗等と生じて諸の禽獣蟲等を残害す。若し脩羅と成りては常に闘戦を作して恐怖息むことなし。偶ま人中に生じては短命多病なり。復次に人の威勢を憎み、福徳を嫉む。亦是瞋恚の一分なり。凡そ他の名利恭敬を嫉妬するは是極めて狭き志なり。荘子が云へる、鳶鳥の腐鼠を得て啄む時、空を陵ぐ鵷雛(えんすう・鳳の雛)を見て嚇(おどす)が如し(「『荘子』外篇・秋水篇「南方に鳥有り。其の名を鵷鶵と爲す。子之を知らんか。夫れ鵷鶵は南海に發して北海に飛び、梧桐に非ざれば止まらず、練實に非ざれば食わず、醴泉に非ざれば飲まず。是に於いて鴟の腐鼠を得るに、鵷鶵之を過ぎる。仰ぎて之を視て曰く「嚇」と)」)。夫れ鵷雛は梧桐に非ざれば棲ことなく、竹實に非ざれば食ふことなし。豈に腐鼠の穢きを奪意あらんや。他の寵愛を妬み、人の栄耀を悪む類は皆彼の鳶に同じき者なり。かくの如くの浅猿(あさまし)き心、皆瞋恚を以て究竟ず。瞋恚もよく諸の悪業を起こすといへども、別して親しきは殺生の悪業と嫉妬と悪口と恨との根源なり。恐るべし慎むべし。「常念」等の九字(常念恭敬觀世音菩薩)は、機を明かす。其の義は上に委しく注すが如し。観心の釈を云はば、蔵教の意ならば、若し初心の人ならば、先ず慈悲観を作すべし。是に多種あり。初めには怨人に於いて下人の想を作し(親しきが中の下品を下人と云なり)、下人に於いて中人の想を作し、中人に於いて上人の想を作す。次には怨人に於いて中人の想を作し、下人に於いて上人の想を作す。後には怨人に於いて上人の想を作す。かくの如くして能く錬修しつれば一切時一切處に恩讎の思もなく、敵と成る者もなくして安穏快楽なり。但し此れは初心の行者の瞋を伏する方便なり。若し又後心の人ならば違の境現前する時、即ち観智を以て分析して悉く空ならしむ。謂く刀杖逼近ずかんに刀杖も極微なり。我身も極微なりと観ずる時は、我身と刀杖と其の體全く同じ。我身の外に刀杖なく、刀杖の外に我身なし。能害(刀杖)所害(我身)俱に空なり。更に何物あってか害し害されん(已上、蔵教(小乗)の常念)。次に通教(大乗小乗通じての教え)の意は、能害所害俱に因縁より生じて其の體即空なり。喩ば眼に膜ある者は虚空の中に花ありと見るが如し。空花の開落は擧體即ち空なり。若し開を喜び、落を悲まば是狂人なるべし(是通教の常念なり)。次に別教(菩薩だけに説かれた教え)の意は一切の違の境と瞋嫉の心とを次第に三観(空観・仮観・中観)を以て観念するなり。次に圓教(完全円満な三諦円融の法門)の意は上の婬欲下に同じ、例して知るべし。

「便得離瞋」とは應を明かす。事理の常念共に瞋恚を消滅する力用あるべし。

 

 

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