吉祥院法華会願文 元慶五年十月廿一日
「 弟子従五位上式部少輔菅原朝臣敬ひて白す。吉祥院建立の縁、最勝会願文に叙ぶること詳なり。伏して惟るに、弟子慈親伴氏、去る貞観十四年正月十四日、奄然として過去す。
周忌に至るに及び、先考、法華経一部八巻・普賢観経・無量義経各一巻・般若心経一巻を写し奉たてまつる。時也此の院立ず。便ち弥勒寺の講堂に於て、略大乗の妙趣を説き、長逝の尊霊を引く。弟子位望、猶ほ微にして、心は申るも事は屈す。泣血のみにして、更に営む所無し。
又、先妣亡(伴氏)去之日、弟子を誡て曰はく「汝幼稚の齢、病を得て危困なりしとき、余が心、哀愍の深きに堪ず、観音像を造り奉る願を発せりき。彼の観音力を念じて、汝が病除愈得たり。汝禄有りしより、其の上分を割き、分寸相累し用度支ふべし。発願の本、汝が身に在と雖ども、懈緩の責、恐らくは余が累わづらひと為ならんことをを」と。
弟子、遺命を奉りてより三四年来、 雕飾纔に成なれども、禮供猶し闕り。自後、朝恩遺(わすれ)ず、官爵分に過ぎたり。即ち念を作して曰く、得所の禄俸、先づ報恩に資く、報恩の後、以て遊費すべし、と。
爰に、経用を損節し、禅供を弁設して、元慶三年夏末に至り、風月の下、定省の間、斯の一念を以て、略先考に達す。先考曰「善哉、汝の是の言を作や。余一禅院を建て二部経を講ずべし。最勝の妙典、余が発願に依り、先年講畢れり。法華大乗、汝が報恩に寄せ、共に随喜せむ。唯だ念くは、懸車已に迫り、死門前に在んことを。須らく明年を待ち豫め田舎に帰るべし。帰去の次でに、妙理を聴んとす。妙理を聴き已り、将に因縁を結ばんとす。因縁を已りて余が後累無し。又、余が家の吉祥悔過、久く孟冬十月を用ひたり。法會の期、宜しく彼の節を取るべし」と。弟子、敬ひて慈誨を奉り、敢へて軽慢せず。
是に於て、日輪駐まらず、星律已に廻れり。二月下旬、弟子始めて藥を嘗め、仲秋晦日、先考遂に薨に就けり。遺誡の中、更に他事無し、唯だ十月の悔過失堕すべからざることのみ有り。今、八月既に過ぐ、父が服先に除るも、正月来らざれば、母が忌猶遠し。廿一日より廿四日に至るまで、禅衆を礼拝し、法筵を開批せんとす。仰ぐ所は新成の観音像、説く所は舊寫の法華経。始め謂らく、冥報に就きて以て共に存亡を利せんと、今願はく、善功に仮て同じく考妣を導かんことを。
嗟呼、先考、弟子を誡いましめたまひし所、失はざるは今日開會の朝なり。弟子、所奉先考に奉る所、相違せしは、去年薨逝の夕、弟子、父無くして何をか恃まん、母無く何をか怙まん。天を怨まず、人を尤ず。身の数奇にして、夙に孤露と為る。南無観世音菩薩、南無妙法蓮華経、所説の如く、所誓の如く弟子の考妣を引導し速かに大菩提果を證したまへ。
無邊の功徳、無量の善根をば、普く法界に施し、皆共に利益せん。
(注、吉祥院願文として有名なもの。菅氏文章の解説によれば、吉祥院は祖父清公が唐より帰朝後に建立と伝えるが文中では父是善が貞観・元慶に建立しそこで最勝経を講じていたらしい。生母伴氏が貞観十四年に死んだときは弥勒寺で供養會を営んでいる。この吉祥院は道真公が幼時病身であった時観音力により病を克服しえたのでその報賽として俸禄を割いてこの院の建立の資にあて、かつここで毎年十月吉祥悔過を営むに至ったのである。吉祥院は桂川の東岸、羅生門の址西南6,7百m、後世道真公の霊廟が立った。)