大師の時代(榊亮三郎)・・その1
本日は、弘法大師の御降誕に際しまして、眞言宗各派の管長の方々、並に耆宿碩學の賁臨を忝うし、又滿堂の諸君の來集の中に於て、此の演壇に立ち、宗祖大師の時代につきまして、一塲の卑見をのぶることを得まするは、私にとりまして、光榮至極のことゝ存じます、演題は、茲に掲げました通り「大師の時代」と云ふのであります、從來、宗祖大師の降誕會を擧行せらるゝ度毎に、緇素の諸名流方が、此の演壇の上に現れまして、或は大師の文章につき、或は才學につき、或は建立せられた教義につき、或は功業遺徳につき、演述せられたものは甚だ多い、此等は、弘法大師の面目其のものを描き出したもので、濃淡の差はあり、色彩の別はありましやうが、謂はば、大師の御肖像を描き出す上に於て、全部又は一部の貢與をなされたものと私は信じます、由來、肖像畫は、畫の中でも、困難なものであつて、就中、宗祖大師のごとき方を言説の力で描き出して聽くもの、見るものをして、其の眉目生動の御姿を彷彿せしむるは、困難至極のことであると想像致しますが、從來發表せられた講演の筆記を拜見致しますに、中々巧にやりとげられたやうに窺はれますが、私の只今諸君の清鑒に供しまするのは、大師の御肖像ではありませぬ、大師の埀跡せられ、活動せられた時代そのものであつて、大師の御一身を、假りに龍に倫擬しますれば、今迄此の演壇に立たれた方々の御講演は、雲に駕し、雨を呼んで、九天の上に飛翔せらるゝ龍を描き出し、又は、描き出んと勉められたもので、其の苦心は、尋常一樣でなかつたことは、谷本、松本、内藤の諸博士の御演説集を一見致しましても、判然致します、此等は、孰れも、龍の全部を描出したものであるが、しかし、龍と申すも雲を得て、始めて、靈ある次第でありまして、風に駕し、雲を御して、始めて四海の上に飛翔することが出來るのである、私は、自から揣るに、到底龍其のものを描くことは、其の器でない強ひて、やれば、或は、蛇となる恐があるから、此の際、寧ろ、龍のつきものでありまする雲を描きたいと思ひ、又風を描きたいと思ひましたのが、即ち、大師の時代と云ふ題目を選擇しました所以で、大師の肖像ではないが、其の背景であり其の周圍であります、大師が、よりて以て飛翔せられた風雲であります、龍を描いて、雲を描かなかつたら、如何にして、其の靈を示すことが出來ましやうか、大師の文章才學を述べ、其の功業遺徳を讃歎しましても、大師を出した時代、大師が飛翔せられた雲霄の光景が、明かでない以上は、大師の面目が完全に描き出されんとは、云へない、此の點より申せば、私の選擇しました題目も、大師の遺徳を紹述します上に於ても决して、關係がないものとは、申されぬ次第と確信致します、私の家は、世々新義眞言宗の檀徒で、生れた故郷は、興教大師の御事跡と關係ある紀伊岩手の莊でありまして、幼少の時代から、嗜んで、弘法大師の御傳記などは、讀んだものであり、又義理は一切了解しませなんだが、般若心經や、光明眞言などは、七つ八つの時代から暗誦したもので、今でも、やつて見よと云はるれば、巧ではないが、素人仲間に伍すれば、その導師ぐらゐは、勤まる積である、かゝる次第でありましたから、弘法大師の傳記は種々讀みまするし、又傳聞もしましたが、幼少の頃は、想像に富み、空想に馳せ易いから、大師の傳記などは、字義通り、解釋し、又信じまして、自分が、小石を拾うて、紀の川に抛げても、一町とは飛ばぬに大師のごとくなりさへすれば、唐土から、三鈷杵を投げても、必ず雲山萬里の距離を飛び越して、高野山の松の枝にかゝるものと信じました、又村のはづれにある松原を、黄昏の頃に通りて、同行二人と書いた笠を戴いてひとり、とぼ/\と疲れた足を曳きづつて來る四國巡禮のものに遭ふと、かう見えても、もしや、是は、高野山の奧の院に今なほ居らるゝ大師が、假に身を扮じて、巡禮者となつて來たのではないかと思つたこともあつた、其の後、年が段々たけて、種々の學問や、種々の經驗などをしましたが、幼少の頃に、讀んだ宗祖大師の傳記は、時につれ、折に觸れて、私の心を動かし、感ぜしめたことが、尠くない、これと同時に、其の傳記に對する自分の見解が、變化して來て、最初の程は、超人間的であつたが、漸次人間的となつて來り文字通り解釋して來たものが、譬喩的に解釋する樣になり、幼少の頃は、彩霞※(「丹+彡」、第3水準1-84-29)雲の上に光明赫奕として居らるゝ大師の姿を望んで居たが、年が長ずると共に、大師の姿は、自分の身に接近せらるゝ樣に感じ、自分の師傅として、又自分の伴侶として、眉睫の間に、大師を見る樣な心地となつた次第で、以前は、「大師だから、かくかくである、自分では、とても」と思つたのが、後には、「大師がかく/\であるから、自分も」と云ふ樣になつて來た、隨つて、自分の所謂大師の面目なり、又御姿の輪廓なりが、明白になつて來たつもりである、殊に八年前、文部省の留學生となつて、佛國巴里に赴き、前後二年滯在して居つたときは、殊に、此の感が深かつた、「プラース、ド、ラ、コンコード」の廣塲から「ジヤンゼリゼー」の廣衢が、「ナポレオン」の建てた凱旋門を貫きて、「ブーローンヌ」の林につらなつてあるが、そこを午後三時から、夜にかけて輕車肥馬の來往が、織るがやうで、夜に入ると、車につけた燈火が、旁午入り亂れて、流星の亂れ飛ぶかと怪まるゝさまであつて、東海の一遊士たる自分は、此の光景を見るたび毎に、大師の長安に居られた時は、長安の大道は、坦として砥のごとく、佳人才子が、銀鞍白馬春風を渡つて、慈恩寺の塔の邊に行樂したさまは、かゝるものであつたらうと感じだ、又かの國の先輩や、同窓に親切に世話になつたときなどは、恐多い話ではあるが、宗祖大師が在唐の當時、青龍寺惠果和尚や、西明寺の志明談勝法師などに厚遇せられたことなどは、屡々心の中に浮び出た次第で、要するに、自分が今日に至るまで、理想として仰ぎ、伴侶として親み、順境の時にも、逆境に處した時にも、心裡に、慰藉を與へ、光明を放つて呉れた古今東西の偉人は、决して、鮮くないが、幼少の頃から、今に至るまで、忘れられないのは、歴史としては弘法大師の傳記で、稗史小説ではあるが、演義三國史[#「三國史」はママ]に現はれた關羽の性格である、殊に大師の傳記が、自分の年の長ずると共に、閲歴見聞の加はると共に、了解せられ、氷釋するがごとき趣があるは、自から顧て、不思議の感がある。
本日は、弘法大師の御降誕に際しまして、眞言宗各派の管長の方々、並に耆宿碩學の賁臨を忝うし、又滿堂の諸君の來集の中に於て、此の演壇に立ち、宗祖大師の時代につきまして、一塲の卑見をのぶることを得まするは、私にとりまして、光榮至極のことゝ存じます、演題は、茲に掲げました通り「大師の時代」と云ふのであります、從來、宗祖大師の降誕會を擧行せらるゝ度毎に、緇素の諸名流方が、此の演壇の上に現れまして、或は大師の文章につき、或は才學につき、或は建立せられた教義につき、或は功業遺徳につき、演述せられたものは甚だ多い、此等は、弘法大師の面目其のものを描き出したもので、濃淡の差はあり、色彩の別はありましやうが、謂はば、大師の御肖像を描き出す上に於て、全部又は一部の貢與をなされたものと私は信じます、由來、肖像畫は、畫の中でも、困難なものであつて、就中、宗祖大師のごとき方を言説の力で描き出して聽くもの、見るものをして、其の眉目生動の御姿を彷彿せしむるは、困難至極のことであると想像致しますが、從來發表せられた講演の筆記を拜見致しますに、中々巧にやりとげられたやうに窺はれますが、私の只今諸君の清鑒に供しまするのは、大師の御肖像ではありませぬ、大師の埀跡せられ、活動せられた時代そのものであつて、大師の御一身を、假りに龍に倫擬しますれば、今迄此の演壇に立たれた方々の御講演は、雲に駕し、雨を呼んで、九天の上に飛翔せらるゝ龍を描き出し、又は、描き出んと勉められたもので、其の苦心は、尋常一樣でなかつたことは、谷本、松本、内藤の諸博士の御演説集を一見致しましても、判然致します、此等は、孰れも、龍の全部を描出したものであるが、しかし、龍と申すも雲を得て、始めて、靈ある次第でありまして、風に駕し、雲を御して、始めて四海の上に飛翔することが出來るのである、私は、自から揣るに、到底龍其のものを描くことは、其の器でない強ひて、やれば、或は、蛇となる恐があるから、此の際、寧ろ、龍のつきものでありまする雲を描きたいと思ひ、又風を描きたいと思ひましたのが、即ち、大師の時代と云ふ題目を選擇しました所以で、大師の肖像ではないが、其の背景であり其の周圍であります、大師が、よりて以て飛翔せられた風雲であります、龍を描いて、雲を描かなかつたら、如何にして、其の靈を示すことが出來ましやうか、大師の文章才學を述べ、其の功業遺徳を讃歎しましても、大師を出した時代、大師が飛翔せられた雲霄の光景が、明かでない以上は、大師の面目が完全に描き出されんとは、云へない、此の點より申せば、私の選擇しました題目も、大師の遺徳を紹述します上に於ても决して、關係がないものとは、申されぬ次第と確信致します、私の家は、世々新義眞言宗の檀徒で、生れた故郷は、興教大師の御事跡と關係ある紀伊岩手の莊でありまして、幼少の時代から、嗜んで、弘法大師の御傳記などは、讀んだものであり、又義理は一切了解しませなんだが、般若心經や、光明眞言などは、七つ八つの時代から暗誦したもので、今でも、やつて見よと云はるれば、巧ではないが、素人仲間に伍すれば、その導師ぐらゐは、勤まる積である、かゝる次第でありましたから、弘法大師の傳記は種々讀みまするし、又傳聞もしましたが、幼少の頃は、想像に富み、空想に馳せ易いから、大師の傳記などは、字義通り、解釋し、又信じまして、自分が、小石を拾うて、紀の川に抛げても、一町とは飛ばぬに大師のごとくなりさへすれば、唐土から、三鈷杵を投げても、必ず雲山萬里の距離を飛び越して、高野山の松の枝にかゝるものと信じました、又村のはづれにある松原を、黄昏の頃に通りて、同行二人と書いた笠を戴いてひとり、とぼ/\と疲れた足を曳きづつて來る四國巡禮のものに遭ふと、かう見えても、もしや、是は、高野山の奧の院に今なほ居らるゝ大師が、假に身を扮じて、巡禮者となつて來たのではないかと思つたこともあつた、其の後、年が段々たけて、種々の學問や、種々の經驗などをしましたが、幼少の頃に、讀んだ宗祖大師の傳記は、時につれ、折に觸れて、私の心を動かし、感ぜしめたことが、尠くない、これと同時に、其の傳記に對する自分の見解が、變化して來て、最初の程は、超人間的であつたが、漸次人間的となつて來り文字通り解釋して來たものが、譬喩的に解釋する樣になり、幼少の頃は、彩霞※(「丹+彡」、第3水準1-84-29)雲の上に光明赫奕として居らるゝ大師の姿を望んで居たが、年が長ずると共に、大師の姿は、自分の身に接近せらるゝ樣に感じ、自分の師傅として、又自分の伴侶として、眉睫の間に、大師を見る樣な心地となつた次第で、以前は、「大師だから、かくかくである、自分では、とても」と思つたのが、後には、「大師がかく/\であるから、自分も」と云ふ樣になつて來た、隨つて、自分の所謂大師の面目なり、又御姿の輪廓なりが、明白になつて來たつもりである、殊に八年前、文部省の留學生となつて、佛國巴里に赴き、前後二年滯在して居つたときは、殊に、此の感が深かつた、「プラース、ド、ラ、コンコード」の廣塲から「ジヤンゼリゼー」の廣衢が、「ナポレオン」の建てた凱旋門を貫きて、「ブーローンヌ」の林につらなつてあるが、そこを午後三時から、夜にかけて輕車肥馬の來往が、織るがやうで、夜に入ると、車につけた燈火が、旁午入り亂れて、流星の亂れ飛ぶかと怪まるゝさまであつて、東海の一遊士たる自分は、此の光景を見るたび毎に、大師の長安に居られた時は、長安の大道は、坦として砥のごとく、佳人才子が、銀鞍白馬春風を渡つて、慈恩寺の塔の邊に行樂したさまは、かゝるものであつたらうと感じだ、又かの國の先輩や、同窓に親切に世話になつたときなどは、恐多い話ではあるが、宗祖大師が在唐の當時、青龍寺惠果和尚や、西明寺の志明談勝法師などに厚遇せられたことなどは、屡々心の中に浮び出た次第で、要するに、自分が今日に至るまで、理想として仰ぎ、伴侶として親み、順境の時にも、逆境に處した時にも、心裡に、慰藉を與へ、光明を放つて呉れた古今東西の偉人は、决して、鮮くないが、幼少の頃から、今に至るまで、忘れられないのは、歴史としては弘法大師の傳記で、稗史小説ではあるが、演義三國史[#「三國史」はママ]に現はれた關羽の性格である、殊に大師の傳記が、自分の年の長ずると共に、閲歴見聞の加はると共に、了解せられ、氷釋するがごとき趣があるは、自から顧て、不思議の感がある。