福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

2月15日は涅槃会です。その5(最終回)

2013-02-14 | 法話
5、涅槃とはなにか
初期佛教では涅槃は煩悩が燃え尽きた状態を意味しました。いつも読む般若心経には「菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。」とあり、また中論観涅槃品二十五には「もろもろの因縁を受くるがゆえに生死の中に輪転す。もろもろの因縁を受けざるを名つけて涅槃となす。如実に転倒を知らざるゆえに五受陰によりて生死に往来す。如実に転倒を知るがゆえに即ちまた五受陰によりて生死に往来せず。無性の五陰はまた相続せざるがゆえに説いて涅槃と名ずく。」
とあります。

法華経如来寿量品には「衆生を度わんが為の故に方便して涅槃を現すも、しかも実には滅度せずして常にここ霊鷲山に住して法を説くなり・・・」とあります。

また大般涅槃経でも弟子達はお釈迦様の涅槃を「死」ととらえて大騒ぎします。しかしお釈迦様は「我、実は涅槃に入らず。たとえば母いきて他土に至る。いまだ帰らざるの間、諸子各々「母すでに死す」といふ。しかも母実には死せざるが如し・・不滅の義、不覆の義、不去不来の義、不取の義を涅槃となずく・・・大涅槃にいりて盈虚あることなし」とおっしゃいます。四相品では「我この閻浮提の中にありて数数示現して涅槃に入ると雖も、しかれども我、實は畢竟涅槃せず。しかももろもろの衆生皆、如来真実に滅尽すといふ。しかも如来性は実にながく滅せず。」「依法とは即ちこれ如来の大般涅槃、一切の佛法、即ちこれ法性即ち是如来なり。このゆえに如来は常住不変なり」とあり、月喩品では「如来の性、実は涅槃なし。しかも諸の衆生みな「如来実に般涅槃す」といふ。たとえば月没の如し。善男子、如来の性、実は生滅なく衆生を化せんがために生滅あるを示す。」といい、聖行品では「佛性は無為なり此の故に常となす。」とあります。つまるところ法華経、大般涅槃経ともにお釈迦さまは衆生を覚醒させるために方便で滅相をとられますがそのおおもとの「佛性」は常住で滅することはなく「常楽我浄」でもあるとするのです。

仏教学者宇井伯寿は『佛教汎論』に「涅槃、さとり、真如、心」を同じ意味としています。
密教辞典(法蔵館)によれば「真言の修業により菩提心が発心、修業、菩提、涅槃の順に向上していく。」「4つの分位は五点の阿字(アーンク)で表示される大日如来を中心として順次、発心点(ア)、修業点(アー)、菩提点(アン)、涅槃点(アク)、で象徴する。その最後が涅槃点で終わっているのは涅槃が密教の実践目標にほかならないからである。」とあります。

お大師様も「本来不生なれば滅壊を離れたり、因を離れ、縁を離れて生もなく死もなし、無生無滅なれば終始あることなし(金剛般若経解題)」とおっしゃっています。

我々もお釈迦様と同じく不生不滅なのです。

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