観自在菩薩冥應集、連體。巻1/6・14/15
十四、同寺役行者の霊像不思議の事。
抑役行者と申すは和州葛木の上郡茆原村(奈良県御所市茅原)の人也。名は小角、氏は賀茂の役公氏、今の高賀茂と云者なり。年三十二にして家を棄て葛城山に入、巌窟に居し玉ふ事三十余年、藤蔓を衣とし松果を食に充て、常に孔雀明王の呪を誦して五色の雲に駕して仙境に往来し鬼神を駆使って日本の霊区名山至らずといふ處なし。一日山神に告げて曰く、葛本の峯より金峯山に渡る其の道危く険し。汝等石橋を架けよと。衆の鬼神夜夜石を運ぶ。小角呵し玉はく、橋成る事なんぞ遅きやと。対て曰く、葛城の嶺一言主神、其の形醜きが故に夜のみいず、故に遅しと。小角怒りて石索を以て一言主の神を縛する事七帀して谷の底に捨て玉ふに、神も亦恨みて禁中の人に託して小角を讒し叛逆の企てありと云ふ。時に文武天皇勅して小角を召し玉ふ。空に騰がりて飛び去り玉ふ。勅使何ともすべきやうなかりければ即ち小角の母を捉て囹圄(ろう)に繋るに小角やむをえずして囚につき玉ふ。即ち伊豆の大嶋に配流し玉ふ事三年、昼は島に居し夜は富士山に登り玉ふ。大宝元年701年に免じて京に帰し玉ふに又空を飛びて去り玉へり。嘗て摂州の箕面山に住し玉ふ時に夢見玉はく、滝の底に入り竜樹菩薩に逢て法を授かり玉ふと。依りて伽藍を建て箕面寺(現在の瀧安寺)を竜樹の浄土なりと云ふ。小角その後に住し玉ふ處を知らず。世に伝ふ行者自ら草座に座し母を鉢に乗せて海に浮かんで大唐に赴き玉ふといへり。役行者は持明仙人(明呪を持す仙人。蘇悉地羯囉經 に「持明仙乘空成就五通及有多種或得諸漏盡或辟支佛或證菩薩位地或知解一切事・・」)なるが故に今に大峰葛城等に住して形を隠し、縁に随って衆生を化益し玉ふなり。故に其の形像の在る處には今に種々の奇瑞あり。又出家の形にはあらず。故に優婆塞と云。今世に山伏と号する者は行者の修験を学ぶ者ならんか。観心寺に霊験無双の役行者の尊像あり。古より小堂に安置せり。其の隣に北の坊とて客僧の小坊あり。https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjYwYmW0teIAxV0na8BHdRAKoQQh-wKegQIGxAD&url=https%3A%2F%2Fwww.kanshinji.com%2Fkeidai-navi.html&usg=AOvVaw3wbjR-lIdwtM9Xu6qWWoGq&opi=89978449
元禄年中の住持を春深と号す。同郡太村の人也。幼少より槙本院秀圓法師に仕へて性分質朴正直第一にして終に瞋の色を顕さず。朋輩の作る咎も枉げて我が身に負て恨みの心をも生ぜざる、柔和淳素の者なり。痛風にてやありけん、偏身疼みて行歩自由ならず、種々に療治せしかども少しの効もなかりけり。若しや役行者の堂近く棲んで無礼をも作る祟りならんかと常々丁寧に香華を供養し礼拝懺悔せり。又本尊地蔵菩薩は不思議多き像にて一年仏前の香盤より失火あって既に燃上がる時に仏壇より北の坊北の坊と高らかに呼び玉ふに驚き起きて見れば火熾りになりぬ。即ち水を灌て打消したり。其の焼痕今にあり。故に別して此の尊像をも信じて香燈怠らず。されども性得魯鈍にて心経光明真言等諳記(おぼ)へたる
までにて物書事もならねば、餘の経陀羅尼を習ふこともなかりけり。元禄八年乙亥(1695年)六月二十三日の夜、子の刻に起きて、明日は地蔵の縁日なり又先師の忌日なりと思て燈明を點じ香を盛りて涙を流して思はく、我足健ならば明日は矢田の地蔵https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwinu9Ci5teIAxWyaPUHHd0kCX8QFnoECBcQAQ&url=https%3A%2F%2Fja.kyoto.travel%2Ftourism%2Fsingle02.php%3Fcategory_id%3D9%26tourism_id%3D205&usg=AOvVaw33RhzFOG96hdQjdqvvAeMg&opi=89978449
へ参詣すべきを業病に苦しめられて徒に年を送る事の悲しさよ、南無地蔵大菩薩哀れみ玉へと唱るに、行者堂の方より呼び玉はく、北の坊よ我今日より修行に出に汝も具して行くべしと。春深おぼつかなく思ひて誰人にて渡せ玉ふや、我は久しく病で行歩叶はず院中をさへ徘徊し難し。いかに況や遠路をやと。時に告げたまはく、我は役行者なり。汝久しく閉居して却って元気も衰へ病も癒へがたかるべし。今般我と共に修行に出でなば病平癒すべし。行歩の叶はぬは苦しからじ、早く支度せよとありければ、春深大に悦びさては行者の召し玉ふなめりと。即ち複子(ふろしき)に帷子二つ、袷衣一つ包で往んとするに又行者庫裏の方に立たまひて早く来よと宣玉ふ御姿を見奉るに正しく当寺の形像なり。故に彌よ嬉しく思ひ草履を尋る間に思く、若し我が留守の内に盗人の入る事もやと。又立ち返り銀子三包、銭二百文手に持ちて急ぎ跣にて門に出、行者様は何に行玉ふぞと見るに東隣梅本坊の前より此方へ此方へと呼び玉ふ程に、御後に付て行く間に銀子銭を複子の内へ押し入れ寺内を出ると思へば、夜明けて高き山の林の際にあり。首を回して見れば淡路島西海を見る。春深驚きて問て曰く、是は何れの處にて候やと。行者答て玉はく、是は金剛山行者坊の横手なりと。春深不思議に思ひ我が身を見るに一の錫杖を策(つけ)り早晩の間に持たしめ玉ふ事を覚へず。又自らは単衣を著して直綴(じきとつ)袈裟をも被ず。数珠をも持たざれば数珠袈裟を取りに帰るべく候やと問奉るに、苦しからず、我も数珠は持たぬぞと宣ひ即ち諸堂へ参詣し玉ふ。本堂にては行者内陣に入り玉ひ、法起菩薩(金剛山の山頂の転法輪寺にお祀りされている。 役小角が金剛山で修業中に現れたのが、法起菩薩。 五眼六臂のお姿で、農耕の守護神)と稍久しく談語りし玉ふ音外に聞へたり。其の後西原に出玉ひ馬酔木を見て、是を掘りて枝を切り複子に包め、とありければ、教の如く錫杖にて掘り即ち荷ひ峯通に往く、林なき峯にも修行の處あり、其の後、萬古、大和の土佐を知るや、と宣ふに、知らず、と答ふ。萬古とは春深を字して呼び玉ふなり。高貴寺と土佐の奥と又高取の奥とに行處あれども此度は略するなり。金剛山は葛城第一の山にて五穀成熟息災延命の霊場、此の山に過ぎたるはなし。是の故に略せず。世人心易く思ひてこの山を信仰する事疎略なり。甚だ愚かなる事なり。私に曰く、金剛山は華厳経の四十五諸菩薩住處品に説かれたり。法起菩薩の浄土なり。昔鑑真和尚この山に入りて法起菩薩の布薩に逢玉ふといへり。夫れより土佐の街を直下にて空を飛び多武峰に至り伽藍を拝し、次に長谷寺の塔の前に出。皆空より下って参詣せり。次に護摩堂観音堂を拝するに皆開帳なり。次に堂の霤(あまだれ)の際より廊下の間の地を稍久しく見て宣く、此の廊下の地、近き内に崩るるなり。若しさがりたるばかりならば幸いなり。然れども三年の内には必ず崩るべし。下の所化寮の難儀なり。修造の時ははねだし(壁や柱に一方が支えられて、そこから他方が突き出した状態)と云ものにすべし。此の崩るる事は他人の眼には見へず、萬古、見よと宣ふに能能みれば地破てあり。果たして次の年の春崩れたり。次に町に出、暫く休息する時に六十可の僧通りければ金剛山より持ち来れる木を此の僧に持せよと宣玉ひ即ち彼僧に持せ又彼の者が持ちたる柄杓をちがへ踏皮(たび)杉原紙(中世には日本で最も多く流通し、特に武士階級が特権的に用いる紙としてステータスシンボルとなった。)四枚を萬古取りて持す。夫れより三輪の明神へ参詣、鳥居の内に入り山に登り峯の空中を歩み往て奈良の春日明神の馬場に出たり。行者は長谷より召し連れ玉ふ僧と山奥に入り玉ひ久しくして白髪にて髭は払子を繋たるが如き老翁の黄なる装束して古木の如くなるを伴ひ来たり玉ひ、馬酔木を植ゆべき處を見立て、萬古にここに裁へよと宣べ玉ひ、裁竟れば、萬古木を栽ゆるに上手なり、周囲に籓をして萌芽のでるまで番をせよとあれば、教の如く籓結ひて守り居るに老翁四度まで黒飯を持し来り萬古に食せしめたまふ。其の内一度は越瓜(しろうり)を鉢に筭積にしたるを食するに、其の味甘露もかくやらんと覚たり。私に曰く、予奈良の人に訪るに春日の神前に供ずる飯は黒飯なり。夏は必ず越瓜(しろうり)を筭積にして供するといへり。行者は山中に行法に御出あり。久しくして後に二人帰り来たり玉ふ間、萬古、長谷の僧は如何と問ふに、行者答玉はく、老人にて用に立たず、其の上初めは長谷の者なりと云、後には又灰原の者なりと偽る。故に追還したり。西国巡礼すと云し程に定めて巡るならんと。然らば彼の者の足袋杓などは何といたすべきやと白すに、行者答玉はく、彼は偽者の生土なしなれば、還さずとも苦しからじと。然る處に彼の馬酔木の芽出て枝は布濩る(はびこる)處へ彼の老翁来たり玉ひ悦び玉はく、此の山にも多くあれども金剛山の木の如くに葉細かにして見事なるはなし、と。久しく行者と談話し玉ひて或は笑ひ或は啼き玉へども其の義理は少しも聞き分ちがたし。後に彼の翁宣はく、行者の御影を大阪にて造立し候。御覧あるまじく候やとありければ、役行者答玉はく、今どきの仏師は我が如くすんがりと痩せたる様に造ること能はず。然れども一見いたすべしとて、夫れより四天王寺へ御参詣ありて伽藍悉く礼拝し其れより西北の松林へ御出あって宣べ玉はく、萬古、西海を見よ、鹽風にあたれば汝が病痊るなりと。即ち西を見るに涼しき風吹き来たりて身に中るに身心爽やかにして快ろよし。又大阪にて我が形像を造る所あるべし。見てこよと仰せられければ即ち町に出て遍く尋るに其の處を見ず。即ち帰りて見ずと白すに、幾回も能く見よとありけるまま、又往て委く尋るに造る處を見つけたり。此の像は何国へ進し候ぞと問ふに、吉野の小篠
へ登せ申すと答ふ。急ぎ帰りて斯と白しければ、さらば我も往て見べしとて、即ち同じく往て暫く見玉ひて肥すぎて見苦し、甚だ不出来なりと宣べ玉ふに佛師も諸人も其の形を見ず、音を聞かざる体なり。大阪の内往来絡繹たる處を錫杖を策て行過ぎるに人馬共によけて通しけり。夫れより又笠置山に登る。山高く岩石多し。岩尾に取り付いて頂上に登りて見れば平地の如し。又大木の根に穴あり。行者告げ玉はく、萬古、汝が持ち来たれる衣服銀子銭を皆この穴に入れ置くべしと。時に白さく、貧僧なれば事欠き迷惑いたすべく候ままに御料簡あるべしと歎きけれども、苦しからじ帰りたらば其程の事は如何にもなるべきぞ、唯此処に納置け、と仰せけるままに即ち悉く納置きぬ。又長谷の僧の物は重ねて逢ば返し候はんまま持行べしと白しければ、心に任せよと宣玉ふ。其れより峯つたひに下の醍醐、上の醍醐へ参詣。其れより岩間寺に至り観音堂の前にて行法の間、石に腰かけて休むに一人の僧三衣袋と渋紙包とを荷ひ胸に三十三所の木札を掛け来て、三衣袋より鐵槌取り出し堂の柱に札を打著く。行者大に笑玉ひて、萬古見よ俗人こそ札掛けて巡礼すべけれ、何ぞや僧の身として胸には卒塔婆の削りくさしの様なる物を掛け、渡世の店出して大事の伽藍に疵つける事よ彼は真言坊主なるべきがいとおかしき事かな、と宣玉ふ。夫れより石山観音堂の前に出ず。皆空中を歩みて出ずも、伽藍を下に見て空より降りぬ。諸堂を禮し御影堂の東より山中を経て兼平が墓處を過ぎhttps://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjJ8v_Czt-IAxVxZ_UHHTqxDdoQFnoECCgQAQ&url=https%3A%2F%2Fwww.rekihaku.otsu.shiga.jp%2Fdb%2Fjiten%2Fdata%2F135.html&usg=AOvVaw12xQEzNg2kA5pDv504iAqE&opi=89978449
膳所の西、小松山の麓を通り木曾殿の墓處を見て
三井寺へ参詣し夫れより山王の社を下に見て叡山の頂へ登り諸堂巡礼し畢って行者宣玉はく、三上が嶽(大江山)に登るべしと。春深大峯の事よと心得又金峯山の方へ御帰り候やと白すに、いや大峯にはあらず百足山を三上が嶽とは云也と宣玉ふ。夫れより湖水を下に見て百足山に登り。夫れより伊勢までの間に奇怪なる岩窟霊峰聖寺殊妙の伽藍を拝する事数を知らず。又何の處と云事を覚ず。或は青き岩の上に梵字あり。御符守護の書様などあり。行者梵字十七字を教へ玉ふ。又其の功徳など具に示したまふ。元来無筆愚鈍なれば覚ず。然れども人に施す御符・牛馬に与ふる符の差別を傳へ玉へり。上包をも折て教玉ひ、是は片くは形、二つ合すれば両くは形、横に合すれば寶冠なり、是は何々の表示なり、認(したた)めて万人に施すべしとし、加持は我が形像の前に来たり丑寅の刻に法施を作せ我加持して與へんと宣玉ふ。此れを習し所、何の處、何の寺と云事を忘れたり。宛も夢の如し。又高山にて御供仕り候事と迷惑の由申しければ、當年は汝が仕合せなり、来年は紀伊の河より南の山を修行すれば大に難處なり、又御眷属の前鬼後鬼を召し連れ玉はで我を具し玉ふは何なる御心ぞやと白すに、彼等も我が他行の留守には相応の役儀あり、又汝が為にも善事なれば今般は汝を具したるなりと宣玉ふ。夫れより二見の浦(伊勢湾に注ぐ五十鈴川の三角州地帯。夫婦岩が有名。)、阿漕(津市の海岸)、津島(木曽三川を渡って尾張と伊勢を結ぶ要衝「津島湊」)と云海邊、朝熊山の東より参詣、夫れより川上に往き外宮へ参り夫れより内宮へ参詣するも皆上より拝す。此の間に霊寺、奇峰、大伽藍、甚だ多けれども夢の如くにて記さず。山の神の奇異なる形を拝みて夫れより山つ゛たひに大河を左に見て往に家多き處に出つ゛。時に行者告げ玉はく、我は此の處に用事あり、汝は是より帰るべし、東へ東へと往けと仰せられしままに、即ち別れて教えの如く往くに大なる家あり。立ち寄りて見れば姥あり、春深を見て御坊は久しく煩ひし人かとて、茶碗に菜飯を盛りて與ふるを食するに百味の飲食も斯やらんと覚て甘味なり。夫れより東を指して往くと思ふに一門あり。扉を開きて見れば北の坊の寺なり。門外に錫杖を靠(よせかけ)て内の戸をひらきて入るに内より誰何ぞと問ふ聲を聞けば春深が弟なり。汝は久太かと云に弟も老母も走り出て大に悦ぶ事限りなし。門外に置きし錫杖を弟に取り来たれと云ふに即ちなし。春深自ら出て見るに忽ち所在を失へり。六月二十四日の暁より出て八月十三日の夜亥の刻に帰る。初め出て見ざる時、諸人怪しみて近郷隣国まで至らぬ隈もなく尋ね求むれども知ざりければ、大阪御奉行所へ申し上げ、最早死したる者ならんと。二十四日を命日にして寺中の僧衆七日七日に法事を営み回向しけり。老母大に悲しみて北の坊に来たり、弟とともに留守して、八月十三日は四十九日なりとて、菜飯を茶碗に盛て霊供に備へられたり。其の志通じたるやらん、其の日菜飯を食して寺へ帰り来たれり。四十九日の間を三日三夜程と覚へたり。又その間大雨降りたる事もあれども、身もぬれず、昼夜の隔てなく寒熱の苦しみもなく、単物一つにて遠路を巡るに身も穢れなかりければ見聞の諸人驚歎せずと云事なし。帰寺の後は当分疲れて前後もなく眠る。四十九日の間、眠らず食物も少なければ疲れて臥すも理なり。三日を過ぎて六七日が間続けて夢に百千の山伏来たりて北の坊に集まり申さく、此のごろ役行者の行法に御出ありし故に我等其の御礼に参りたりと云て去りぬ。十日余りを過ぎて病ことごとく平癒して息災堅固なり。爾後十月初め泉州に一人あり。大病に逢て薬治効なし。或る時夢に人あり、告げて曰く、観心寺北の坊に往て御符を頂戴して用ひよ、必ず病本復すべしとありければ、急ぎ寺に来て然然と云に、寺僧衆聞て大に可笑しく思ひながら先ず春深に語らく、汝御符を出してんやと云に、春深莞爾として曰く、役行者の傳へ玉ふことあり、施すべしとて即ち筆を執りて細く「あ梵字」を書し教えの如く封じて彼の柄杓に入れて夜の丑寅の刻に尊像の前に至りて心経を誦し至心に祈誓して是加持してたびたまへと祈るに杓重くなると覚へて即ち帰り彼の者に施すに其の病痊へぬ。其れより諸人傳へ聞て来たり乞ふに普く施す。皆大に霊験あり。但し人の信不信によれり。或る人雷に逢はぬ御守りなどを出せり。又畜類に施す書様も別なり。上包の書付其のしなありて皆梵字なり。元来一文不通の僧なりしに梵字を書く事絶妙なれば諸人、役行者の感応を貴ばずといふことなし。終に参詣群集せしかば、其の散物等を以て五間四面に行者堂を造り改めたり。不思議と云もおろかなり。又初め行者告げ玉はく、護符は此の杉原に書せよ、加持は此の柄杓に入れて我が前に来れ、足袋は汝が母に土産にすべしとありけるままに帰りて母に贈るに能く叶ひて甚だ喜びけり。又或夜寒ければとて諸人すすめて酒を飲ませたり。その夜は尊像の前に至り加持を乞へども夜明るまで加持成ぜざりけり。佛天の酒をいみ玉ふこと誠なるかなと後に人に語りけり。春深生まれ付正直なる故に役小角の霊感を蒙り不思議奇妙の秘符を傳へたり。其の後五六年を経て命終しぬ。近き事なれば予面会見聞せし故に筆記するものなり。又行者所々を巡りて行法し玉ふ時、懐中より一巻きの秘書を取り出し行じ玉ふ。河内の国にも葛城四十八か所の行處とて光の滝、岩涌山等といへる處あり。又行者法華の二十八品を表して二十八の霊区を定め玉ふ。泉州二の宿の観音(方便品)巻尾山(常不軽品にあたる)等俱に観音の霊場なり。