地蔵菩薩三国霊験記 5/14巻の4/17
四、同じく善寂寺の像の事
梁朝(6世紀中国の南北朝時代に江南に存在した国)の漢州徳陽縣(四川省徳陽市)の善寂寺の東廊壁上に絹を張りて観音地蔵各一躰を彩畫す。かたち僧の
張僧孫,地蔵菩薩・観世音菩薩各一体を彩畫す。かたち僧の貌の如し。鋟披(しんひ)して坐せり。時の人瞻礼すれば異光を放つ。麟徳元年(664年)にいたりて寺の僧、敬をなす事常に異ならんとほっして絹を壁上に就いてうつして供養せんとす。光を発すること異なる事なし。時の人展轉して寫す者甚だ多し。麟徳三年にいたりて玉記起て資州の勅史に任ぜらる。以て模写して精誠供養して同行する舩十隻あり。あちまち悪風にはかにをこるにあへり。九隻の船は没して子の波にあへり。唯玉記が舩のみ更に恐怖なし。故に菩薩の大悲如是なることの代なるを知る。垂拱二年(唐の睿宗李旦の治世686年)に至りて天后之を聞きて勅して畫人して模写せしめ玉ふ。光を発すこと前の如し。内道場にをいて供養す。大歴元年(766年)に至りて寶壽寺の大徳道場の中にて光の異相を見て寫して聞奏す。帝乃ち心をつつしんで頂礼讃嘆す。其の光菩薩現ずるときに國安泰なるべし。後に商人の妻あり。妊娠して二十八月をすぎて産せず。忽ち光明を見て即ち模写して一心に発願して祈る。是に於いて菩薩夜にあたりて便ち一男を生下す。相好端厳なり。見る者歓喜の心をこさぬはなし。