それから詩の病のこと、即ち詩の作り方の病と申します。作り方の越度です。越度の箇條を段々擧げて居る。それに就いては他の本は八つの病を擧げて居るが、大師は二十九種の病を擧げて居られると云ふことは、谷本博士の講演の中にも其の事が研究されて居りますが、大師は詩の法に關する有らゆる本を見られたから、通常世の中では八病と稱へて居つたものを、二十一種も詩の法則を見出して、それを殘して置かれたと云ふことが分るのであります。是等は谷本博士も既に十分に講究して居られます。
それから文鏡祕府論の一番終りに行つて、妙なことが書いてあります。それは帝徳録と云ふものであります。是は勿論文章の法則でもありませぬけれども、文章を作るに就いて、天子のことなどを書く時は、通例の人とは同じ言葉を使ひませぬ。御出掛けになることでも行幸と申しますとか、いろ/\天子に關する言辭と云ふものは、普通とは違つて居る。さう云ふ形容の言辭は支那では大切なことにして居ります。さう云ふ語類を集めたものが帝徳録と云ふのでありますが、其の帝徳録と云ふものは、日本國現在書目には二卷としてある。今日其の書籍はありませぬが、文鏡祕府論の終りの方に一册を占める位に書いてありますから、或は全部載つて居るのではないかと思ふ程であります。
何かくだ/\しいことが長くなりますが、兎に角文鏡祕府論と云ふものは、ザツと申せば是れだけの價値がある。今日此の文鏡祕府論が殘つて居るに就いて、唐代の文學上の事を知るにどれだけの利益があるか、今日から昔のことを研究するに就いても、他に得られない材料を、此の一部の本に依つて、それだけの研究が出來ると云ふことを、私は今日御披露したいと思つて、それで此の事を申しました。
私が改めて申上げるまでもなく、此本は眞言宗の御方が御骨折りで出來た弘法大師全集の中に入つて居るのでありますが、その新板本は幾部かの古寫本を以て、通行版本の文鏡祕府論と對照され、又あとから出來た文筆眼心抄とも校合されたと云ふことも拜見したのでありますが、それに就いて校合の不十分だと云ふことを思ふ所があります。是れ程の價値がある本であるとすれば、是は眞言宗の方のみならず、日本の文學を研究する人は必ず一度は之を見て、日本の文學なり支那の文學なりを研究するに重大な價値があると云ふことを知られることを希望するのでありますが、それに就て弘法大師全集本の校合の不十分だと云ふことを申すのは、甚だ恐縮ですが、御見落しになつて居ると云ふ例を一つ申しませう。此の本は詰り大師が亡くなられた後に、草稿だけが何處かに遺つて居つて、それから段々寫し傳へられたものでありませう。それは此の出版された本の中に、時々御草本と云ふことが書いてあります。即ち大師の御草稿本と云ふことであります。十四條八階などゝいふ條に、御草稿本には此があつて、朱を以て消してあると云ふことが斷はつてあります。けれども矢張り本文は消さずに此處は消した處だと云ふことまで丁寧に斷はつてありますから、此の本を出版する時にさう云ふ斷はりを附けましたか、此の本を出版する前に從來寫し傳へられる時に、御草稿本に依つてさう云ふ丁寧な校語を附けましたか、兎に角さう云ふ風に、弘法大師の御草稿本を自筆で消された所までも殘して、消してあると云ふことを斷はつて置いたといふことが分ります。所で其の消すといふ字を其原本では、皆金偏にして銷の字を使つて居りまして、『之を銷す』と書いてある。『銷』の字を、或る處では出版になる時に誤つて『錯』と云ふ字にしてあります。『之を銷す』と云ふことを誤つて『之を錯る』と云つて居る。それを弘法大師全集を出版される時に、元からある本の儘に『之を錯る』と書いてある。是は『銷』と云ふ字の訛りであると云ふことも斷はつてありませぬ。これは校合された方が御見落しになつたことゝ思ひます。斯う云ふことがありますから、弘法大師のことを研究される方があると、私共のやうな專門家でないものでも、其の誤りを見付けますから、隨分面白いことが出て來ると思ひます。私も此の本を徹頭徹尾十分研究したのではありませぬが、從來愛讀して居つた本でありますから、唯だ氣の着いた所に朱を入れて置いた分を、今日御話をしたに過ぎませぬ。願はくば弘法大師を研究される方も、或は日本文學若くは支那の文學を研究される方も、一層綿密に其の研究を進められたいと云ふことを希望するのであります。文鏡祕府論に關係したことは、先づ是れぐらゐで終ります。
それからもう一つは是は谷本博士の研究中にも、其の當時多分氣が着かれてあつたと思ひますが、御話になつては居りませぬものに就いて一つ申上げます。それは篆隸萬象名義と云ふ本であります。此の事に就いても實は弘法大師全集の編集を爲された御方に私は不足を申上げたいと思ひます。それは篆隸萬象名義と云ふ本は、隨分少ない本で、栂尾の高山寺に其の原本があります。其の他二箇所ばかりにそれから傳寫した本があります。私は此の本に就いては大變に興味を有つて居りまして、今から十年程前に寫して居ります。それが今日こゝに御目に懸ける六册の本であります。是は私のやうな別に眞言宗の信者でもなく、弘法大師の研究者でもない者が、こんな厚い六册もある本を何故に態々寫して置かなければならぬ程のものかと云ふことを申せば、自然どれだけの價値があるかと云ふことが分ります。
それで此の篆隸萬象名義と云ふ本は何かと云ふと、是は支那の字引の拔書であります。此の事に就いては先程申しました楊守敬なども餘程注意をして居つて十分に其の價値を言うて居ります。どう云ふ所に價値があるかと云ふと、それを申しますには少しばかり支那の字引の歴史を申さなければならぬから、極く簡單に申しますが、支那の字引と云ふもので、纏つたものゝ出來ましたのは、後漢の末に許愼の説文と云ふ本が出來まして、それが大變に重大な著述であつて、今日でも古い字引のことを研究する時は、誰でも此の説文を見なければならぬことになつて居ります。其の後に段々字引は出來ましたが、其の後最も盛んに行はれた字引は、梁の顧野王といふ人の玉篇と云ふ字引であります。是は其の後いろ/\變化をして、日本では普通詰らない字引にまで玉篇といふ名前が附いて居るが、是は顧野王の玉篇が盛んに行はれた結果であります。説文といふ本は今日では昔の儘とは言はれませぬが、大體昔の體裁で保存されて居りますが、此の玉篇は今日其の儘で保存されては居りませぬ。玉篇は三十卷でありますが、其の中四卷半ばかりは昔の體裁のまゝの者が日本に遺つて居ります。即ち栂尾の高山寺にもあり、石山にもあります。或は有名な藏書家の有つて居るものもあります。是は支那には昔の體裁のまゝの者が、全く絶えて居りますから、楊守敬などが日本に居る時に、日本に遺つて居る分を版にして居ります。それも全部は遺つて居りませぬで、六分の一程しか遺つて居りませぬ。此の玉篇と云ふものは能く行はれた本で、唐の時に玉篇に大分手を入れて、其の手を入れたまゝで行つて居る。西洋でも字引は次第々々手を入れて、最初著述した時の面目が無くなるほど手を入れて年々變つて行く。玉篇も、梁、陳の時に顧野王が之を著はしてから、段々手を入れて變つて行つた。唐の時にも變り、宋の時にも變り、宋の時には殊に出版と云ふことが行はれて、宋元の間に玉篇の版になつたものが何十種と云ふ程あります。段々増して行つたものでありますから、體裁が變つて居る。段々増して行つたことになつて居りますが、實は段々減つて行つて居る。字の數は増して居るが、解釋が減つて行つて居る。今日後漢以後、唐以前の六朝の時の字引を見ようとするには、玉篇は非常に大切なものでありますが、惜しいことには顧野王の玉篇の原本の六分の一程しか遺つて居らない。其の後の本は唐宋以後手を入れて、いろ/\まぜくり返したものであつて、六朝の其の儘の玉篇を見ると云ふことは出來ぬのであります。所が弘法大師の篆隸萬象名義と云ふもので、玉篇の眞相が窺はれるのであります。篆隸萬象名義は、字の順なり、數なり、聲の反しから、解釋から、一切顧野王の玉篇其の儘になつて居ります。唐宋以後に手を入れたと云ふものは一つも加はつて居らぬ。顧野王がいろ/\古い本を引いて註釋してある所だけは削つてありますが、字の音と字の解釋とは顧野王の玉篇其の儘にしてあります。是は此の本の特色であります。それでこの篆隸萬象名義と云ふものを見ると、日本にある玉篇の原本に缺けて居る分、即ち足りない分を、八分以上も補ふことが出來るのでありますから、此の篆隸萬象名義と云ふものは、非常に大切な本であります。支那人は恐らく楊守敬だけしか持つて居りますまいが、之を見たいと云ふ人は澤山あります。
さう云ふやうに世の中に傳はつて居らぬ本であつて、容易に支那人は見ることが出來ぬ。幸ひに日本に傳はつて居るのであつて、六朝の時の字引の姿を其の儘見ることが出來ると云ふことを喜んで居るのであります。斯う云ふものでありますから、私は其の專門の研究者でもありませぬが、今から十年ほど前に此の本を寫して持つて居ります。それで實は弘法大師全集の出來ます時には、定めし斯う云ふ貴重な本は全部出版されることゝ存じて、樂しみにして居りました。所が出來ました弘法大師全集を見ると、是は大變むづかしい本である。殊に是れに書いてある篆書などを一々入れると云ふことは手數であるから、一部分だけ寫眞石版で體裁を見せて置くと云つて、三四枚載せてあります。さう云ふ風にして此の重大な貴重な本は全部逐つ拂ひと云ふことになつて居ります。是に就ては私は弘法大師全集を編輯された方に對して、滿腔の不滿足を申上げようと思ふのであります。全集に三四枚だけ出て居りますけれども、此の六册の本の中から是れだけ拔いて出して、唯だ體裁だけ分つた所で、是は何の役にも立たぬのであります。是は今更取返しの附かぬことでありますけれども、弘法大師全集を出版される程の熱心があり、弘法大師の文藝上の功績を傳へるだけの御熱心があることでありますならば、高山寺本の原本に就いて、もう一度出版を企てられんことを希望するのであります。是は日本の文學の研究とか云ふやうな、小さい問題ではなくして、東洋の文明に就いて、或る時代、何百年と云ふ間の代表になつて居る字引を立派に保存してあるのでありますから、是はもう一遍出版せられるとしても、非常に重大な必要のあることで、さう云ふことが出來ましたならば、嘸ぞ大師も地下で瞑目せられることであらうと思ひます。是は餘計な話でありますけれども、此の出版者も仰つしやる通りに、此本に篆書がありますが隨分下手な篆書でありまして、弘法大師が書かれたならば、こんな下手な字は書かれませぬが、弘法大師の原本から幾度も傳寫をして、斯う云ふやうになつたので、隨分下手な字が書いてある。時としては誤字と思はるゝのもあります。之を正すのが面倒だといはれませうが、併し是は寫眞石版にでもして、其の儘に出せば格別面倒なことでもありませぬ。若し愈々是れが面倒だと云ふならば、此の篆書は有つても無くつても大したことはありませぬ。つまり篆隸萬象名義とありますが、大師の申します隸書と云ふのは、今の楷書のことであります。此の楷書の分だけを出版されても、十分に用は辨ずると思ひます。是は御骨折りついでゞありますから、間違つても何でも原本の儘でして貰ひたいのでありますが、それが出來ないならば、願はくは楷書の分だけでも願ひたいと思ひます。是は日本のみならず支那にも行はれることゝ思ひます。それから又西洋人にして東洋の事を研究する者にも、大變便利を與へることゝ思ひます。この弘法大師全集と云ふものは、餘程愼重な注意を拂つて出されたものであると思ひます。其の中で是は世の中でもつて弘法大師の御著述ではない、僞作であると云ふことを言はれて居るものも矢張り參考の爲め出版されて居ります。世の中で僞作と疑ひのある本までも出版される用意があるならば、僞作でない確かな本は、猶更出版して貰ひたいと思ひます。先づ篆隸萬象名義に關してはそれだけであります。
文學の事に關してはそんなものでありますが、もう一つは弘法大師の書のことを申上げたいと思ひます。弘法大師は能書の御方であつたと云ふことは、是は誰も知つて居ることでありますが、是は從來の私の研究の間違つて居つたことを御詫かた/″\申上げたいと思ふのであります。弘法大師は畫も描かれたり、又彫刻もされたと云ふことがありますが、近來では彫刻は嘘であると云ふ説もあり、或は是非弘法大師は彫刻をしなければならぬ筈である。眞言宗の規則の上にさう云ふ事があるから、必ずせられたと云ふ議論があるさうです。私は迚も其處までは研究が屆いては居りませぬ。さう云ふ議論の仲間入りをして、本當だとか嘘だとか云ふことを申上げる資格はありませぬから、それは御免を蒙つて、今日は弘法大師の書の事だけに就いて申上げたいと思ふのであります。
それはどう云ふ事かと申しますと、弘法大師の著述として傳はつて居る所の、是は全集の中にもあるが、弘法大師眞蹟書訣と云ふ本があります。是は江戸の屋代弘賢と云ふ人が是れに註釋などをして出版をして居りまして、それが能く行はれて居つたので、今度の全集にはそれから取つたと云ふことを斷はられて居りますが、兎に角昔から有名な本になつて居ります。所が此の本に就いて疑問を懷く人がありますが、私は兎に角弘法大師の著述であらうと云ふことは、疑問を懷いて居りませぬ。六朝から唐代まで掛けて、書法の事に就いて書いた本はいろ/\ありますが、其の書き方と云ふものは大體弘法大師眞蹟書訣と云ふ本の書き方に類似して居りまして、大師の書かれたのは唐代に書かれたから、さう云ふ類似があると云ふことを信じて居りますから、贋作でないと云ふことを信じて居ります。
併し私に間違がありました。此の事に就いて茲に御斷はりをして置かなければならぬのは、私の友人に須藤南翠と云ふ有名な小説家があります。此の人は近年通俗讀本と云ふやうな體裁で『空海』と云ふ本、即ち弘法大師御一代の事を書いた本を著はした。それで私は懇意の間柄でありますから、何か序文らしいものを書いて呉れと云ふので、私は詳しい研究も何もありませぬが、唯だ書の事に就いてだけならば何か話をして、それを筆記さして上げませうと云ふことを約束しました。さうして其の書の事に就いての考を話した速記が『空海』と云ふ本の中に載つて居ります。それは此の眞蹟書訣一卷の研究ばかりではありませぬ。大師の書の事に就いて種々の研究と申しますか、私の考へた所を書いて置きましたので、つまり弘法大師の書の風と云ふものは、どう云ふ所から出て來たかと云ふことを申して居ります。大體に於て私は其の書風などのことに就いては、大した誤りはないと信じて居ります。弘法大師の書の風と云ふものは、日本に於て是は書風の革新時代に當つて居つて、其の當時日本で六朝、唐初あたりから傳はつて來て居つた書風とは、餘程一種異つた書風を書き出されたものであると云ふことを言つたのであります。日本へ支那から文字が傳はつて以來、隨分當時の名人には、支那人に比較して餘り劣らない名人がありました。古寫經などにもさう云ふ筆蹟があります、段々さう云ふものに就いて考へて見ると、六朝から唐の初めまでの書風と云ふものは、弘法大師以前には日本には隨分澤山入つて居る。六朝人の書風の入つたと云ふことは、格別怪しむに足らぬ譯でありますが、唐の初めの人の書風が、大師以前、奈良の朝に入つて居ると云ふことは、あまり時代が切迫して不思議なやうでありますが、遣唐使などが隨分往來して居りましたから、早く來て居つたものと見えまして、養(うがひ)徹定と云ふ人の舊藏で、今は西本願寺にある華嚴音義と云ふものは、日本で書いた字であると云ふことでありますが、其文字は、唐の初めの歐陽詢と云ふ有名な書家の書に似て居る。それで歐陽詢の書風が奈良の朝に傳はつて居つたと云ふことが分るのであります。それから歐陽詢の子に歐陽通と云ふ人がありますが、其の人の書と似た書を書いたものが、大阪の小川爲次郎と云ふ人の持つて居る金剛場陀羅尼と云ふ寫經があります。それから長谷寺にある千體佛の下に銘が彫つてあります。其の銘も歐陽通の字に似て居る。此の寫經なり銘文なりの出來た時代は、歐陽通の時代とは三四十年しか隔つて居りませぬが、既に日本に傳はつて居つたと云ふことが分ります。さう云ふ譯で日本には奈良の時代から初唐風の書が傳はつて居りました。けれども其の書風の段々傳はつて居る中で、特別に大師の書風と云ふものが、目立つて異つて居りますのは、唐の方に於きましても、向うでは盛唐と謂ふ、其の時分に書風の一大變革を起しました。顏眞卿と云ふ有名な人が出て、新らしい書風を出しました。是は谷本博士も阮元の南北書派の議論を引いて、研究せられました。其の議論に就いては私は餘り贊成をせぬ所もあり、又贊成をする所もありますけれども、南北の書派の議論は阮元の一家言で、私は全部贊成を致しませぬ。其の事に就いては私は大阪朝日新聞に、「北派の書論」として、是は弘法大師の研究とは何の關係も無いことでありますが、南北の書派の議論を申したことがありまして、必ずしも一々阮元の議論に贊成すると云ふ譯には參りませぬ。從つて谷本博士の考とは多少違ふ點はありますが、併し違ふ點はあつても、兎に角一致する。何人が研究しても恐らく一致すると云ふ點は、唐の代に南北の書派が有る無しに拘らず、一大變遷がある。それは顏眞卿、徐浩などゝ云ふ人が起つた結果であると云ふことで、是は疑ひのない事實であります。それで弘法大師が日本に於て從來の書風と異つた所の、一種の書風を書き出されて、一代の書風に大いなる影響を及ぼしたと云ふことは、顏眞卿、徐浩などの書風が影響したのであります。是は谷本博士の考も私の考も少しも違ひませぬ。兎に角さう云ふ書の方から申しましても、一代の風を變化させるだけの力量を有つて居られましたから、日本の書風も一變し、又大師の書風が後々の書風の元祖となりまして、日本では唐以來正統を受け繼いで、今日に至るまで、大師樣と言はれない他の派でも、多少大師の影響を受けぬものはありませぬから、日本の後々の書風に取つては、大變な影響を及ぼして居ると云ふことが言はれます。さう云ふことをザツと書いて置きましたので、それは別に不思議はありませぬ。今日でも同樣であつて、何人が研究しても同樣であると思ひます。
所で其の中に一つの間違をしたのは、大師の事に就いては、大師は唐に居られた時に、韓方明と云ふ人に就いて、書法を研究されたと云ふことを古來言はれて居る。所が私はそれに就いて疑問を挾んで書いて置きました。それは韓方明と云ふ人には、授筆要説と云ふ本があつたさうです。今では書の事を書いたものゝ中に一部分が存して居るに過ぎませぬが、其の文を見ると、筆を持つのに雙苞と申しまして、二本の指を掛けて持つやうになつて居る。所で大師の執筆法、使筆法と云ふことを申しますが、大師は好んで指を一本掛けて持つ法を使はれた。二本掛けることもありますが、大師は是はいかぬとしてあります。一本掛ける方が運轉が自在であつて、宜いとしてあります。筆の持ち方などはいろ/\ありますので、非常に有名な人であつても、普通謂ふ規則には掛らない筆の持ち方をしても、大變な書の名人もあります。是は一本掛けるが宜いか、二本掛けるが宜いかと云ふのは、今日でも議論のあることで、二本掛けないと力が弱いとか云ふ者がありますが、大師のやうな旨い方は、一本掛ける方が便利であつたかも知れぬのであります。誰れでも字を書くには懸腕直筆と云うて、腕を上げて書くと云ふことは古來一定の法でありますが、腕を上げないでも書く人があります。蘇東坡などゝ云ふ人は不精な人であつて、腕を上げないで書いたと云ふことで、あれは間違つて居ると云ふものもあるが、あれだけ書ければ間違つて居つても結構であります。それで韓方明と云ふ人は二本掛けろと云うて教へて居る。大師は一本の方が宜いと云うて居られる。それであると韓方明から教へられたならば、直ぐ先生の説を打壞して、さう云ふ風に一本掛けると云ふことはをかしいと思ひますから、恐らく是は誤傳であらう。大師の性靈集にも韓方明からと云ふことは斷はつて居らぬ。書の旨い人から傳授を受けたと云ふことだけ書いてあつたのでありますが、韓方明と云ふ人から傳授を受けたと云ふことは信用が出來ぬと言つたのであります。所が是は私の疎漏でありまして、矢張り古來の傳説の方が宜いのでありますから、それで私の前説を取消すのであります。
それでは私にどう云ふ間違があるか、と云ふと、私が本を粗末に讀んだ御詫を致しますのでありますが、段々支那には王羲之など昔の書の旨い人から書の規則に就いて議論があります。さう云ふものを一通り見るに、書史會要などと云ふ本がありまして、書家の有名な人の傳記もあり、又書家の筆法のことも書いてありますが、それに韓方明の授筆要説が載つて居ります。凡そ書家が申します筆法には術語がありまして、例へば永字八法とか云つて、點を打つ所を側とか、撥ねる所を啄とか、上げる所を勒とか云ふ、それ/″\術語があります。其の術語は誰れでも一定して居るのではありませぬ。王羲之の術語は王羲之の術語、歐陽詢の術語は歐陽詢の術語、顏眞卿の術語は顏眞卿の術語と云ふやうに、各々違つた術語を以て説明して居ります。どう云ふ人がどう云ふ事を言つたかと云ふこと、他の人のどれに當るかと云ふことを調べるのは、骨の折れることでありますが、兎に角各々勝手な語を用ひて居ります。所が支那では韓方明の用ひました術語と能く合ふのがもう一つあります。それは南唐の李後主と云ふ人で、五代の末に今の南京に國を建てゝ居つた人がありました。其の人は書の上手な人でありましたが、其の筆法の術語が韓方明の術語に似て居る。韓方明の術語は四字しかありませぬ。李後主の術語は七字あります。兎に角類似した語を使つて居ります。即ち韓方明の術語は、一は『鉤』と云ふ字を使つて居る。それから『※[#「てへん+厭」、85-17]』と云ふ、『訐』と云ふ字、それから『送』の字を使つて居る。南唐の李後主は撥鐙法と云ふものを用ひる。撥鐙法と云ふのは燈心を掻立てる手つきを謂ふのだと云ふ説もあり、又鐙を蹈張る姿勢を謂ふのだと云ふ説もあり、隨分面倒なことでありますが、かういふ事は眞言宗の大學の教授をして居られる畠山八洲先生などがよく御承知でありますが、やかましい議論のある者であるが、要するに此の撥鐙法を七字で説明して居ります。其の中に※[#「てへん+厭」、86-3]の字もあり鉤の字もあり送の字もありますが、訐の字だけありませぬ。所で此の訐の字を筆法の術語として使つて居る人が其の外にあるかと云ふと、一人もありませぬ。所が妙なことには弘法大師だけが使つて居られるから不思議です。弘法大師の書訣、即ち執筆法使筆法と云ふ者の中に、斯う云ふことがあります。※[#「乙」の白抜き、86-6]斯う云ふものを書く時に、頭指で句し、大指で助けて末は停めて訐すとある。又※[#「弋」の第二画の白抜き、86-6]を書く時に大指、頭指(母指、人差指)の二つを掛けて、力のかぎり、引つ張つて勢を十分にして、留めて、而して後訐す。訐すと云ふのは詰り之を彈く。さうして機發の状の如くす。詰り機と云ふのは弩の機の外れる状のことであります。その外れるやうな勢ひでパツと撥ねるのだと云ふことを説明する所に『訐』の字を使つて居る。支那で書法をいろ/\説明した中には、この訐字を使つたのが、韓方明一人である。李後主はそれに代ふるに『掲』の字を使つて居る。即ち掲の字は同じ意味だからと云ふので使つて居る。けれども『訐』の字を書いたのは支那には韓方明の外ありませぬ。所が大師は同じ字を使つて居る。さうして見ると今日の所では『訐』の字一字で證明するのでありますが、大師の筆法は韓方明の筆法を受け繼がれたのであると云ふことは、是れで證據立てることが出來ます。それから單苞とか雙苞とか云ふことは、重んじないことはないのですが、蘇東坡のやうな普通の人の使はない筆法で、隨分立派な字を書くのでありますから、其の人の考へ次第で、いろ/\なやり方をしたもので、大師の方では執筆法使筆法と云つて持ち方使ひ方と云うて、韓方明から傳へられたのは、筆を使ふ法に遺つて居ると思ふのであります。それから今申しました※[#「てへん+厭」、86-17]、鉤、送と云ふ三つの韓方明が使つた術語を大師が使つて居られるか、又は『訐』の字だけを使つて居つて、其の外のものを使つて居られぬでは疑ひを存せねばならぬのでありますが、それはどうかと云ふと、皆明かに此等の術語を使つて居られます。『※[#「てへん+厭」、87-1]』の字は眞先に使筆法の一箇條に使つて居る。それから『鉤』の字は今申しました『訐』の字を使つてある前の箇條に使つて居る。さう云ふやうな譯であつて『送』と云ふ字は其代りになるやうな字を使つてある。『送』と云ふ字を明かに使つては居らぬが、兎に角韓方明の使つた四つの術語の中三つまでは明かに使つて居りますから、もう一つだけを使はないにしても、韓方明の法を大師が受けて居られると云ふことは、明かに分るのであります。斯う云ふ譯で、大師は韓方明の筆法を受繼がれて來たと云ふことは明かで、古來の傳説は貴いものであつて、私が本を能く讀まぬで彼是れ言つたのは分に過ぎたことで、申譯がないと思ひます。それであの『空海』と云ふ本を再版でもするならば、あの箇條を抹殺して、今日申上げたやうに書き直す積りであります。さう云ふ點は私の從來の研究の誤りでありますから、今日此の機會に其の事を發表いたして置きます。
この書法の事に就いては隨分研究された方があります。近頃では東京の『書苑』と云ふ雜誌に『入木道に於ける大師』と云ふ題で、友人の黒板博士がいろ/\載せて居ります。是は私の贊成する所もあり、贊成されぬ所もあります。併し書のことは筆もなしに空に私が御話をした所で、十分に分るものではありませぬから、是は今日唯だ韓方明と云ふ人の筆法を傳へられたと云ふ古來の傳説が確かであると云ふことだけを申上げて、其の他の書法に關することは、茲に申上げぬ積りであります。隨分宗内の御方でも斯う云ふ事に注意をされる方があると見えまして、蓮生觀善さんは高祖の書道について研究になつて居ります。私が遠慮なく申すと、贊成を致す所と贊成を致さぬ所とあります。それは此處で申上げることは御預かりと致します。それから殊に面白いのは、この長谷寶秀さんの『高祖の遺墨』と申しますもので、是は大師が書かれまして今日まで遺つて居る者の中で、どれだけが確かで、どれだけが不確かだと云ふ批評を載せてあります。是等は餘程宗内の御方の研究としては、えらいことであると思ひます。宗内の御方と云ふものは、隨分其の宗内で寶物とせられてあるものなどに對しては、十分に自由の研究と云ふものは出來にくいものでありますのに、此の長谷さんの研究は遠慮なく批評をされてあります。さうして其の批評は殆ど一々適中して居ると謂つても宜からうと思ふ次第で、是は僅かの短篇ではありますけれども、私は餘程此の研究には敬服いたして居ります。今は仁和寺に御所藏になつて居る『三十帖策子』と云ふ有名なものに就いても、黒板博士が意見を書いて居りますが、實はあの書の研究の始まつたのは、私と黒板君とが同時に仁和寺で拜見した時に、どれだけが大師の眞蹟であり、どれだけが外の人の書いたものであると云ふことを、假りに定めて見たのであります。黒板君の意見には、古くから策子の中に、橘逸勢の書いたものがあると傳へられて居るので、どれだけがそれであると云ふことを書いて居られる。それで黒板博士が逸勢の書いたものと極められたのは、私は矢張り大師の書であると見たのであります。かういふ風に一致しない所があるであらうと思ひます。是は實際のものに就いて當つて見ると面白い研究であつて、黒板君が書苑に書かれました議論に就いて、私は何時か自分の意見を發表する時機があると思ひますが、單に此處で愚見を申上げた所が餘り面白味のないものでありますから、さう云ふ事は他日私がさう云ふ事を申します機會がありました時に、御覽を願ひたいと思ひます。
今日は前申上げた通り極めて一部分の事を申上げたに過ぎぬので、定めて御退屈のことであつたと思ひます。併し前にも申上げる通り、既に弘法大師に對する總論では、谷本博士の講演以來、段々研究が出來て居るのでありまして、私共の申上げるのはさう云ふ一部分の事しかありませぬから、已むを得ず斯樣な事を申上げた次第であります。御暑いにも拘はらず長い時間御辛抱なすつて御聽き下さつたことを感謝いたします。
(明治四十五年六月十五日弘法大師降誕會講演)
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それから文鏡祕府論の一番終りに行つて、妙なことが書いてあります。それは帝徳録と云ふものであります。是は勿論文章の法則でもありませぬけれども、文章を作るに就いて、天子のことなどを書く時は、通例の人とは同じ言葉を使ひませぬ。御出掛けになることでも行幸と申しますとか、いろ/\天子に關する言辭と云ふものは、普通とは違つて居る。さう云ふ形容の言辭は支那では大切なことにして居ります。さう云ふ語類を集めたものが帝徳録と云ふのでありますが、其の帝徳録と云ふものは、日本國現在書目には二卷としてある。今日其の書籍はありませぬが、文鏡祕府論の終りの方に一册を占める位に書いてありますから、或は全部載つて居るのではないかと思ふ程であります。
何かくだ/\しいことが長くなりますが、兎に角文鏡祕府論と云ふものは、ザツと申せば是れだけの價値がある。今日此の文鏡祕府論が殘つて居るに就いて、唐代の文學上の事を知るにどれだけの利益があるか、今日から昔のことを研究するに就いても、他に得られない材料を、此の一部の本に依つて、それだけの研究が出來ると云ふことを、私は今日御披露したいと思つて、それで此の事を申しました。
私が改めて申上げるまでもなく、此本は眞言宗の御方が御骨折りで出來た弘法大師全集の中に入つて居るのでありますが、その新板本は幾部かの古寫本を以て、通行版本の文鏡祕府論と對照され、又あとから出來た文筆眼心抄とも校合されたと云ふことも拜見したのでありますが、それに就いて校合の不十分だと云ふことを思ふ所があります。是れ程の價値がある本であるとすれば、是は眞言宗の方のみならず、日本の文學を研究する人は必ず一度は之を見て、日本の文學なり支那の文學なりを研究するに重大な價値があると云ふことを知られることを希望するのでありますが、それに就て弘法大師全集本の校合の不十分だと云ふことを申すのは、甚だ恐縮ですが、御見落しになつて居ると云ふ例を一つ申しませう。此の本は詰り大師が亡くなられた後に、草稿だけが何處かに遺つて居つて、それから段々寫し傳へられたものでありませう。それは此の出版された本の中に、時々御草本と云ふことが書いてあります。即ち大師の御草稿本と云ふことであります。十四條八階などゝいふ條に、御草稿本には此があつて、朱を以て消してあると云ふことが斷はつてあります。けれども矢張り本文は消さずに此處は消した處だと云ふことまで丁寧に斷はつてありますから、此の本を出版する時にさう云ふ斷はりを附けましたか、此の本を出版する前に從來寫し傳へられる時に、御草稿本に依つてさう云ふ丁寧な校語を附けましたか、兎に角さう云ふ風に、弘法大師の御草稿本を自筆で消された所までも殘して、消してあると云ふことを斷はつて置いたといふことが分ります。所で其の消すといふ字を其原本では、皆金偏にして銷の字を使つて居りまして、『之を銷す』と書いてある。『銷』の字を、或る處では出版になる時に誤つて『錯』と云ふ字にしてあります。『之を銷す』と云ふことを誤つて『之を錯る』と云つて居る。それを弘法大師全集を出版される時に、元からある本の儘に『之を錯る』と書いてある。是は『銷』と云ふ字の訛りであると云ふことも斷はつてありませぬ。これは校合された方が御見落しになつたことゝ思ひます。斯う云ふことがありますから、弘法大師のことを研究される方があると、私共のやうな專門家でないものでも、其の誤りを見付けますから、隨分面白いことが出て來ると思ひます。私も此の本を徹頭徹尾十分研究したのではありませぬが、從來愛讀して居つた本でありますから、唯だ氣の着いた所に朱を入れて置いた分を、今日御話をしたに過ぎませぬ。願はくば弘法大師を研究される方も、或は日本文學若くは支那の文學を研究される方も、一層綿密に其の研究を進められたいと云ふことを希望するのであります。文鏡祕府論に關係したことは、先づ是れぐらゐで終ります。
それからもう一つは是は谷本博士の研究中にも、其の當時多分氣が着かれてあつたと思ひますが、御話になつては居りませぬものに就いて一つ申上げます。それは篆隸萬象名義と云ふ本であります。此の事に就いても實は弘法大師全集の編集を爲された御方に私は不足を申上げたいと思ひます。それは篆隸萬象名義と云ふ本は、隨分少ない本で、栂尾の高山寺に其の原本があります。其の他二箇所ばかりにそれから傳寫した本があります。私は此の本に就いては大變に興味を有つて居りまして、今から十年程前に寫して居ります。それが今日こゝに御目に懸ける六册の本であります。是は私のやうな別に眞言宗の信者でもなく、弘法大師の研究者でもない者が、こんな厚い六册もある本を何故に態々寫して置かなければならぬ程のものかと云ふことを申せば、自然どれだけの價値があるかと云ふことが分ります。
それで此の篆隸萬象名義と云ふ本は何かと云ふと、是は支那の字引の拔書であります。此の事に就いては先程申しました楊守敬なども餘程注意をして居つて十分に其の價値を言うて居ります。どう云ふ所に價値があるかと云ふと、それを申しますには少しばかり支那の字引の歴史を申さなければならぬから、極く簡單に申しますが、支那の字引と云ふもので、纏つたものゝ出來ましたのは、後漢の末に許愼の説文と云ふ本が出來まして、それが大變に重大な著述であつて、今日でも古い字引のことを研究する時は、誰でも此の説文を見なければならぬことになつて居ります。其の後に段々字引は出來ましたが、其の後最も盛んに行はれた字引は、梁の顧野王といふ人の玉篇と云ふ字引であります。是は其の後いろ/\變化をして、日本では普通詰らない字引にまで玉篇といふ名前が附いて居るが、是は顧野王の玉篇が盛んに行はれた結果であります。説文といふ本は今日では昔の儘とは言はれませぬが、大體昔の體裁で保存されて居りますが、此の玉篇は今日其の儘で保存されては居りませぬ。玉篇は三十卷でありますが、其の中四卷半ばかりは昔の體裁のまゝの者が日本に遺つて居ります。即ち栂尾の高山寺にもあり、石山にもあります。或は有名な藏書家の有つて居るものもあります。是は支那には昔の體裁のまゝの者が、全く絶えて居りますから、楊守敬などが日本に居る時に、日本に遺つて居る分を版にして居ります。それも全部は遺つて居りませぬで、六分の一程しか遺つて居りませぬ。此の玉篇と云ふものは能く行はれた本で、唐の時に玉篇に大分手を入れて、其の手を入れたまゝで行つて居る。西洋でも字引は次第々々手を入れて、最初著述した時の面目が無くなるほど手を入れて年々變つて行く。玉篇も、梁、陳の時に顧野王が之を著はしてから、段々手を入れて變つて行つた。唐の時にも變り、宋の時にも變り、宋の時には殊に出版と云ふことが行はれて、宋元の間に玉篇の版になつたものが何十種と云ふ程あります。段々増して行つたものでありますから、體裁が變つて居る。段々増して行つたことになつて居りますが、實は段々減つて行つて居る。字の數は増して居るが、解釋が減つて行つて居る。今日後漢以後、唐以前の六朝の時の字引を見ようとするには、玉篇は非常に大切なものでありますが、惜しいことには顧野王の玉篇の原本の六分の一程しか遺つて居らない。其の後の本は唐宋以後手を入れて、いろ/\まぜくり返したものであつて、六朝の其の儘の玉篇を見ると云ふことは出來ぬのであります。所が弘法大師の篆隸萬象名義と云ふもので、玉篇の眞相が窺はれるのであります。篆隸萬象名義は、字の順なり、數なり、聲の反しから、解釋から、一切顧野王の玉篇其の儘になつて居ります。唐宋以後に手を入れたと云ふものは一つも加はつて居らぬ。顧野王がいろ/\古い本を引いて註釋してある所だけは削つてありますが、字の音と字の解釋とは顧野王の玉篇其の儘にしてあります。是は此の本の特色であります。それでこの篆隸萬象名義と云ふものを見ると、日本にある玉篇の原本に缺けて居る分、即ち足りない分を、八分以上も補ふことが出來るのでありますから、此の篆隸萬象名義と云ふものは、非常に大切な本であります。支那人は恐らく楊守敬だけしか持つて居りますまいが、之を見たいと云ふ人は澤山あります。
さう云ふやうに世の中に傳はつて居らぬ本であつて、容易に支那人は見ることが出來ぬ。幸ひに日本に傳はつて居るのであつて、六朝の時の字引の姿を其の儘見ることが出來ると云ふことを喜んで居るのであります。斯う云ふものでありますから、私は其の專門の研究者でもありませぬが、今から十年ほど前に此の本を寫して持つて居ります。それで實は弘法大師全集の出來ます時には、定めし斯う云ふ貴重な本は全部出版されることゝ存じて、樂しみにして居りました。所が出來ました弘法大師全集を見ると、是は大變むづかしい本である。殊に是れに書いてある篆書などを一々入れると云ふことは手數であるから、一部分だけ寫眞石版で體裁を見せて置くと云つて、三四枚載せてあります。さう云ふ風にして此の重大な貴重な本は全部逐つ拂ひと云ふことになつて居ります。是に就ては私は弘法大師全集を編輯された方に對して、滿腔の不滿足を申上げようと思ふのであります。全集に三四枚だけ出て居りますけれども、此の六册の本の中から是れだけ拔いて出して、唯だ體裁だけ分つた所で、是は何の役にも立たぬのであります。是は今更取返しの附かぬことでありますけれども、弘法大師全集を出版される程の熱心があり、弘法大師の文藝上の功績を傳へるだけの御熱心があることでありますならば、高山寺本の原本に就いて、もう一度出版を企てられんことを希望するのであります。是は日本の文學の研究とか云ふやうな、小さい問題ではなくして、東洋の文明に就いて、或る時代、何百年と云ふ間の代表になつて居る字引を立派に保存してあるのでありますから、是はもう一遍出版せられるとしても、非常に重大な必要のあることで、さう云ふことが出來ましたならば、嘸ぞ大師も地下で瞑目せられることであらうと思ひます。是は餘計な話でありますけれども、此の出版者も仰つしやる通りに、此本に篆書がありますが隨分下手な篆書でありまして、弘法大師が書かれたならば、こんな下手な字は書かれませぬが、弘法大師の原本から幾度も傳寫をして、斯う云ふやうになつたので、隨分下手な字が書いてある。時としては誤字と思はるゝのもあります。之を正すのが面倒だといはれませうが、併し是は寫眞石版にでもして、其の儘に出せば格別面倒なことでもありませぬ。若し愈々是れが面倒だと云ふならば、此の篆書は有つても無くつても大したことはありませぬ。つまり篆隸萬象名義とありますが、大師の申します隸書と云ふのは、今の楷書のことであります。此の楷書の分だけを出版されても、十分に用は辨ずると思ひます。是は御骨折りついでゞありますから、間違つても何でも原本の儘でして貰ひたいのでありますが、それが出來ないならば、願はくは楷書の分だけでも願ひたいと思ひます。是は日本のみならず支那にも行はれることゝ思ひます。それから又西洋人にして東洋の事を研究する者にも、大變便利を與へることゝ思ひます。この弘法大師全集と云ふものは、餘程愼重な注意を拂つて出されたものであると思ひます。其の中で是は世の中でもつて弘法大師の御著述ではない、僞作であると云ふことを言はれて居るものも矢張り參考の爲め出版されて居ります。世の中で僞作と疑ひのある本までも出版される用意があるならば、僞作でない確かな本は、猶更出版して貰ひたいと思ひます。先づ篆隸萬象名義に關してはそれだけであります。
文學の事に關してはそんなものでありますが、もう一つは弘法大師の書のことを申上げたいと思ひます。弘法大師は能書の御方であつたと云ふことは、是は誰も知つて居ることでありますが、是は從來の私の研究の間違つて居つたことを御詫かた/″\申上げたいと思ふのであります。弘法大師は畫も描かれたり、又彫刻もされたと云ふことがありますが、近來では彫刻は嘘であると云ふ説もあり、或は是非弘法大師は彫刻をしなければならぬ筈である。眞言宗の規則の上にさう云ふ事があるから、必ずせられたと云ふ議論があるさうです。私は迚も其處までは研究が屆いては居りませぬ。さう云ふ議論の仲間入りをして、本當だとか嘘だとか云ふことを申上げる資格はありませぬから、それは御免を蒙つて、今日は弘法大師の書の事だけに就いて申上げたいと思ふのであります。
それはどう云ふ事かと申しますと、弘法大師の著述として傳はつて居る所の、是は全集の中にもあるが、弘法大師眞蹟書訣と云ふ本があります。是は江戸の屋代弘賢と云ふ人が是れに註釋などをして出版をして居りまして、それが能く行はれて居つたので、今度の全集にはそれから取つたと云ふことを斷はられて居りますが、兎に角昔から有名な本になつて居ります。所が此の本に就いて疑問を懷く人がありますが、私は兎に角弘法大師の著述であらうと云ふことは、疑問を懷いて居りませぬ。六朝から唐代まで掛けて、書法の事に就いて書いた本はいろ/\ありますが、其の書き方と云ふものは大體弘法大師眞蹟書訣と云ふ本の書き方に類似して居りまして、大師の書かれたのは唐代に書かれたから、さう云ふ類似があると云ふことを信じて居りますから、贋作でないと云ふことを信じて居ります。
併し私に間違がありました。此の事に就いて茲に御斷はりをして置かなければならぬのは、私の友人に須藤南翠と云ふ有名な小説家があります。此の人は近年通俗讀本と云ふやうな體裁で『空海』と云ふ本、即ち弘法大師御一代の事を書いた本を著はした。それで私は懇意の間柄でありますから、何か序文らしいものを書いて呉れと云ふので、私は詳しい研究も何もありませぬが、唯だ書の事に就いてだけならば何か話をして、それを筆記さして上げませうと云ふことを約束しました。さうして其の書の事に就いての考を話した速記が『空海』と云ふ本の中に載つて居ります。それは此の眞蹟書訣一卷の研究ばかりではありませぬ。大師の書の事に就いて種々の研究と申しますか、私の考へた所を書いて置きましたので、つまり弘法大師の書の風と云ふものは、どう云ふ所から出て來たかと云ふことを申して居ります。大體に於て私は其の書風などのことに就いては、大した誤りはないと信じて居ります。弘法大師の書の風と云ふものは、日本に於て是は書風の革新時代に當つて居つて、其の當時日本で六朝、唐初あたりから傳はつて來て居つた書風とは、餘程一種異つた書風を書き出されたものであると云ふことを言つたのであります。日本へ支那から文字が傳はつて以來、隨分當時の名人には、支那人に比較して餘り劣らない名人がありました。古寫經などにもさう云ふ筆蹟があります、段々さう云ふものに就いて考へて見ると、六朝から唐の初めまでの書風と云ふものは、弘法大師以前には日本には隨分澤山入つて居る。六朝人の書風の入つたと云ふことは、格別怪しむに足らぬ譯でありますが、唐の初めの人の書風が、大師以前、奈良の朝に入つて居ると云ふことは、あまり時代が切迫して不思議なやうでありますが、遣唐使などが隨分往來して居りましたから、早く來て居つたものと見えまして、養(うがひ)徹定と云ふ人の舊藏で、今は西本願寺にある華嚴音義と云ふものは、日本で書いた字であると云ふことでありますが、其文字は、唐の初めの歐陽詢と云ふ有名な書家の書に似て居る。それで歐陽詢の書風が奈良の朝に傳はつて居つたと云ふことが分るのであります。それから歐陽詢の子に歐陽通と云ふ人がありますが、其の人の書と似た書を書いたものが、大阪の小川爲次郎と云ふ人の持つて居る金剛場陀羅尼と云ふ寫經があります。それから長谷寺にある千體佛の下に銘が彫つてあります。其の銘も歐陽通の字に似て居る。此の寫經なり銘文なりの出來た時代は、歐陽通の時代とは三四十年しか隔つて居りませぬが、既に日本に傳はつて居つたと云ふことが分ります。さう云ふ譯で日本には奈良の時代から初唐風の書が傳はつて居りました。けれども其の書風の段々傳はつて居る中で、特別に大師の書風と云ふものが、目立つて異つて居りますのは、唐の方に於きましても、向うでは盛唐と謂ふ、其の時分に書風の一大變革を起しました。顏眞卿と云ふ有名な人が出て、新らしい書風を出しました。是は谷本博士も阮元の南北書派の議論を引いて、研究せられました。其の議論に就いては私は餘り贊成をせぬ所もあり、又贊成をする所もありますけれども、南北の書派の議論は阮元の一家言で、私は全部贊成を致しませぬ。其の事に就いては私は大阪朝日新聞に、「北派の書論」として、是は弘法大師の研究とは何の關係も無いことでありますが、南北の書派の議論を申したことがありまして、必ずしも一々阮元の議論に贊成すると云ふ譯には參りませぬ。從つて谷本博士の考とは多少違ふ點はありますが、併し違ふ點はあつても、兎に角一致する。何人が研究しても恐らく一致すると云ふ點は、唐の代に南北の書派が有る無しに拘らず、一大變遷がある。それは顏眞卿、徐浩などゝ云ふ人が起つた結果であると云ふことで、是は疑ひのない事實であります。それで弘法大師が日本に於て從來の書風と異つた所の、一種の書風を書き出されて、一代の書風に大いなる影響を及ぼしたと云ふことは、顏眞卿、徐浩などの書風が影響したのであります。是は谷本博士の考も私の考も少しも違ひませぬ。兎に角さう云ふ書の方から申しましても、一代の風を變化させるだけの力量を有つて居られましたから、日本の書風も一變し、又大師の書風が後々の書風の元祖となりまして、日本では唐以來正統を受け繼いで、今日に至るまで、大師樣と言はれない他の派でも、多少大師の影響を受けぬものはありませぬから、日本の後々の書風に取つては、大變な影響を及ぼして居ると云ふことが言はれます。さう云ふことをザツと書いて置きましたので、それは別に不思議はありませぬ。今日でも同樣であつて、何人が研究しても同樣であると思ひます。
所で其の中に一つの間違をしたのは、大師の事に就いては、大師は唐に居られた時に、韓方明と云ふ人に就いて、書法を研究されたと云ふことを古來言はれて居る。所が私はそれに就いて疑問を挾んで書いて置きました。それは韓方明と云ふ人には、授筆要説と云ふ本があつたさうです。今では書の事を書いたものゝ中に一部分が存して居るに過ぎませぬが、其の文を見ると、筆を持つのに雙苞と申しまして、二本の指を掛けて持つやうになつて居る。所で大師の執筆法、使筆法と云ふことを申しますが、大師は好んで指を一本掛けて持つ法を使はれた。二本掛けることもありますが、大師は是はいかぬとしてあります。一本掛ける方が運轉が自在であつて、宜いとしてあります。筆の持ち方などはいろ/\ありますので、非常に有名な人であつても、普通謂ふ規則には掛らない筆の持ち方をしても、大變な書の名人もあります。是は一本掛けるが宜いか、二本掛けるが宜いかと云ふのは、今日でも議論のあることで、二本掛けないと力が弱いとか云ふ者がありますが、大師のやうな旨い方は、一本掛ける方が便利であつたかも知れぬのであります。誰れでも字を書くには懸腕直筆と云うて、腕を上げて書くと云ふことは古來一定の法でありますが、腕を上げないでも書く人があります。蘇東坡などゝ云ふ人は不精な人であつて、腕を上げないで書いたと云ふことで、あれは間違つて居ると云ふものもあるが、あれだけ書ければ間違つて居つても結構であります。それで韓方明と云ふ人は二本掛けろと云うて教へて居る。大師は一本の方が宜いと云うて居られる。それであると韓方明から教へられたならば、直ぐ先生の説を打壞して、さう云ふ風に一本掛けると云ふことはをかしいと思ひますから、恐らく是は誤傳であらう。大師の性靈集にも韓方明からと云ふことは斷はつて居らぬ。書の旨い人から傳授を受けたと云ふことだけ書いてあつたのでありますが、韓方明と云ふ人から傳授を受けたと云ふことは信用が出來ぬと言つたのであります。所が是は私の疎漏でありまして、矢張り古來の傳説の方が宜いのでありますから、それで私の前説を取消すのであります。
それでは私にどう云ふ間違があるか、と云ふと、私が本を粗末に讀んだ御詫を致しますのでありますが、段々支那には王羲之など昔の書の旨い人から書の規則に就いて議論があります。さう云ふものを一通り見るに、書史會要などと云ふ本がありまして、書家の有名な人の傳記もあり、又書家の筆法のことも書いてありますが、それに韓方明の授筆要説が載つて居ります。凡そ書家が申します筆法には術語がありまして、例へば永字八法とか云つて、點を打つ所を側とか、撥ねる所を啄とか、上げる所を勒とか云ふ、それ/″\術語があります。其の術語は誰れでも一定して居るのではありませぬ。王羲之の術語は王羲之の術語、歐陽詢の術語は歐陽詢の術語、顏眞卿の術語は顏眞卿の術語と云ふやうに、各々違つた術語を以て説明して居ります。どう云ふ人がどう云ふ事を言つたかと云ふこと、他の人のどれに當るかと云ふことを調べるのは、骨の折れることでありますが、兎に角各々勝手な語を用ひて居ります。所が支那では韓方明の用ひました術語と能く合ふのがもう一つあります。それは南唐の李後主と云ふ人で、五代の末に今の南京に國を建てゝ居つた人がありました。其の人は書の上手な人でありましたが、其の筆法の術語が韓方明の術語に似て居る。韓方明の術語は四字しかありませぬ。李後主の術語は七字あります。兎に角類似した語を使つて居ります。即ち韓方明の術語は、一は『鉤』と云ふ字を使つて居る。それから『※[#「てへん+厭」、85-17]』と云ふ、『訐』と云ふ字、それから『送』の字を使つて居る。南唐の李後主は撥鐙法と云ふものを用ひる。撥鐙法と云ふのは燈心を掻立てる手つきを謂ふのだと云ふ説もあり、又鐙を蹈張る姿勢を謂ふのだと云ふ説もあり、隨分面倒なことでありますが、かういふ事は眞言宗の大學の教授をして居られる畠山八洲先生などがよく御承知でありますが、やかましい議論のある者であるが、要するに此の撥鐙法を七字で説明して居ります。其の中に※[#「てへん+厭」、86-3]の字もあり鉤の字もあり送の字もありますが、訐の字だけありませぬ。所で此の訐の字を筆法の術語として使つて居る人が其の外にあるかと云ふと、一人もありませぬ。所が妙なことには弘法大師だけが使つて居られるから不思議です。弘法大師の書訣、即ち執筆法使筆法と云ふ者の中に、斯う云ふことがあります。※[#「乙」の白抜き、86-6]斯う云ふものを書く時に、頭指で句し、大指で助けて末は停めて訐すとある。又※[#「弋」の第二画の白抜き、86-6]を書く時に大指、頭指(母指、人差指)の二つを掛けて、力のかぎり、引つ張つて勢を十分にして、留めて、而して後訐す。訐すと云ふのは詰り之を彈く。さうして機發の状の如くす。詰り機と云ふのは弩の機の外れる状のことであります。その外れるやうな勢ひでパツと撥ねるのだと云ふことを説明する所に『訐』の字を使つて居る。支那で書法をいろ/\説明した中には、この訐字を使つたのが、韓方明一人である。李後主はそれに代ふるに『掲』の字を使つて居る。即ち掲の字は同じ意味だからと云ふので使つて居る。けれども『訐』の字を書いたのは支那には韓方明の外ありませぬ。所が大師は同じ字を使つて居る。さうして見ると今日の所では『訐』の字一字で證明するのでありますが、大師の筆法は韓方明の筆法を受け繼がれたのであると云ふことは、是れで證據立てることが出來ます。それから單苞とか雙苞とか云ふことは、重んじないことはないのですが、蘇東坡のやうな普通の人の使はない筆法で、隨分立派な字を書くのでありますから、其の人の考へ次第で、いろ/\なやり方をしたもので、大師の方では執筆法使筆法と云つて持ち方使ひ方と云うて、韓方明から傳へられたのは、筆を使ふ法に遺つて居ると思ふのであります。それから今申しました※[#「てへん+厭」、86-17]、鉤、送と云ふ三つの韓方明が使つた術語を大師が使つて居られるか、又は『訐』の字だけを使つて居つて、其の外のものを使つて居られぬでは疑ひを存せねばならぬのでありますが、それはどうかと云ふと、皆明かに此等の術語を使つて居られます。『※[#「てへん+厭」、87-1]』の字は眞先に使筆法の一箇條に使つて居る。それから『鉤』の字は今申しました『訐』の字を使つてある前の箇條に使つて居る。さう云ふやうな譯であつて『送』と云ふ字は其代りになるやうな字を使つてある。『送』と云ふ字を明かに使つては居らぬが、兎に角韓方明の使つた四つの術語の中三つまでは明かに使つて居りますから、もう一つだけを使はないにしても、韓方明の法を大師が受けて居られると云ふことは、明かに分るのであります。斯う云ふ譯で、大師は韓方明の筆法を受繼がれて來たと云ふことは明かで、古來の傳説は貴いものであつて、私が本を能く讀まぬで彼是れ言つたのは分に過ぎたことで、申譯がないと思ひます。それであの『空海』と云ふ本を再版でもするならば、あの箇條を抹殺して、今日申上げたやうに書き直す積りであります。さう云ふ點は私の從來の研究の誤りでありますから、今日此の機會に其の事を發表いたして置きます。
この書法の事に就いては隨分研究された方があります。近頃では東京の『書苑』と云ふ雜誌に『入木道に於ける大師』と云ふ題で、友人の黒板博士がいろ/\載せて居ります。是は私の贊成する所もあり、贊成されぬ所もあります。併し書のことは筆もなしに空に私が御話をした所で、十分に分るものではありませぬから、是は今日唯だ韓方明と云ふ人の筆法を傳へられたと云ふ古來の傳説が確かであると云ふことだけを申上げて、其の他の書法に關することは、茲に申上げぬ積りであります。隨分宗内の御方でも斯う云ふ事に注意をされる方があると見えまして、蓮生觀善さんは高祖の書道について研究になつて居ります。私が遠慮なく申すと、贊成を致す所と贊成を致さぬ所とあります。それは此處で申上げることは御預かりと致します。それから殊に面白いのは、この長谷寶秀さんの『高祖の遺墨』と申しますもので、是は大師が書かれまして今日まで遺つて居る者の中で、どれだけが確かで、どれだけが不確かだと云ふ批評を載せてあります。是等は餘程宗内の御方の研究としては、えらいことであると思ひます。宗内の御方と云ふものは、隨分其の宗内で寶物とせられてあるものなどに對しては、十分に自由の研究と云ふものは出來にくいものでありますのに、此の長谷さんの研究は遠慮なく批評をされてあります。さうして其の批評は殆ど一々適中して居ると謂つても宜からうと思ふ次第で、是は僅かの短篇ではありますけれども、私は餘程此の研究には敬服いたして居ります。今は仁和寺に御所藏になつて居る『三十帖策子』と云ふ有名なものに就いても、黒板博士が意見を書いて居りますが、實はあの書の研究の始まつたのは、私と黒板君とが同時に仁和寺で拜見した時に、どれだけが大師の眞蹟であり、どれだけが外の人の書いたものであると云ふことを、假りに定めて見たのであります。黒板君の意見には、古くから策子の中に、橘逸勢の書いたものがあると傳へられて居るので、どれだけがそれであると云ふことを書いて居られる。それで黒板博士が逸勢の書いたものと極められたのは、私は矢張り大師の書であると見たのであります。かういふ風に一致しない所があるであらうと思ひます。是は實際のものに就いて當つて見ると面白い研究であつて、黒板君が書苑に書かれました議論に就いて、私は何時か自分の意見を發表する時機があると思ひますが、單に此處で愚見を申上げた所が餘り面白味のないものでありますから、さう云ふ事は他日私がさう云ふ事を申します機會がありました時に、御覽を願ひたいと思ひます。
今日は前申上げた通り極めて一部分の事を申上げたに過ぎぬので、定めて御退屈のことであつたと思ひます。併し前にも申上げる通り、既に弘法大師に對する總論では、谷本博士の講演以來、段々研究が出來て居るのでありまして、私共の申上げるのはさう云ふ一部分の事しかありませぬから、已むを得ず斯樣な事を申上げた次第であります。御暑いにも拘はらず長い時間御辛抱なすつて御聽き下さつたことを感謝いたします。
(明治四十五年六月十五日弘法大師降誕會講演)
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