3、 鎌倉時代
・太平記には「・・・されば(蒙古襲来により)日本一州の貴賎・上下、如何せんとなげきかなしみ、周章騒ぐこと斜めならず。これによって、諸社の御幸・行幸、諸寺の大法・秘法、宸襟を傾け肝胆をぞ砕かれける。そうじて日本六十余州大小の神祇、霊験の仏閣等に勅使を立てられ、奉幣を捧げられずといふことなし。かくのごとく御祈祷すでに七日に満じける日、諏訪の湖上より五色の雲西にたなびいて、大蛇のかたちにぞみえたりける。また(真言僧叡尊上人の祈願した)石清水八幡宮の御宝殿の扉開けて、馬の馳せ走る音、轡のなりひびく声、虚空に充満たり。日吉二十一社の錦帳の御鏡うごき、神宝の刃とがれて、御沓西にむかへり。住吉四所の神馬どもも移の下に汗流れ、児守・勝手の鉄の楯西に向かって突きならべたり。凡そ上中下二十一社の震動・奇瑞申すに及ばず、大日本国中の大小の諸神の名帳に載するところ、三千七百五十余座ないし山家村里の小社・櫟社・道祖神とうにいたるまで、御戸の開かぬはなかりけり。・・」等として神社にて密教修法を行じ、神仏一体の加護をねがっている。
・このころ日蓮宗は法華神道を唱え、法華経守護の三十番神を具体化した。僧慈遍(天台僧。《徒然草》の著者吉田兼好の兄弟)は「神國私記」を著し、神道大意、天地開闢、両宮鎮座、佛神異同等を論じ朝廷に奉った。存覚(浄土真宗)は諸神本懐集をあらわし、「それ佛陀は神明の本地、神明は佛陀の垂迹なり。本にあらざれば迹を垂るることなく、迹にあらざれば本をあらわうことなし。神明といひ、佛陀といひ、おもてとなり、うらとなりて、たがひに利益をほどこし、垂迹といひ、本地といひ、権となり、實となりてともに済度をいたす。」といい、蓮如は『御文』で「一切の神明と申すは本地は佛菩薩の変化にてましませども、この衆生をみるに佛菩薩にはすこしちかずきがたく、おもふあいだ、神明の方便にかりに神とあらわれて、衆生に縁んを結びて、その力もてたよりとして遂に佛法にすすめいれんがためなり。これすなわち和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはりと云へるは、此の心なり。さればいまの世の衆生仏法を信じ、念仏をむまをさん人をば神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆへに弥陀一佛の悲願に帰すればとりわけ神明をあがめず、信ぜずとも、そのうちに同じく信ずる心はこもれるゆへなり。」といっている。
・太平記には「・・・されば(蒙古襲来により)日本一州の貴賎・上下、如何せんとなげきかなしみ、周章騒ぐこと斜めならず。これによって、諸社の御幸・行幸、諸寺の大法・秘法、宸襟を傾け肝胆をぞ砕かれける。そうじて日本六十余州大小の神祇、霊験の仏閣等に勅使を立てられ、奉幣を捧げられずといふことなし。かくのごとく御祈祷すでに七日に満じける日、諏訪の湖上より五色の雲西にたなびいて、大蛇のかたちにぞみえたりける。また(真言僧叡尊上人の祈願した)石清水八幡宮の御宝殿の扉開けて、馬の馳せ走る音、轡のなりひびく声、虚空に充満たり。日吉二十一社の錦帳の御鏡うごき、神宝の刃とがれて、御沓西にむかへり。住吉四所の神馬どもも移の下に汗流れ、児守・勝手の鉄の楯西に向かって突きならべたり。凡そ上中下二十一社の震動・奇瑞申すに及ばず、大日本国中の大小の諸神の名帳に載するところ、三千七百五十余座ないし山家村里の小社・櫟社・道祖神とうにいたるまで、御戸の開かぬはなかりけり。・・」等として神社にて密教修法を行じ、神仏一体の加護をねがっている。
・このころ日蓮宗は法華神道を唱え、法華経守護の三十番神を具体化した。僧慈遍(天台僧。《徒然草》の著者吉田兼好の兄弟)は「神國私記」を著し、神道大意、天地開闢、両宮鎮座、佛神異同等を論じ朝廷に奉った。存覚(浄土真宗)は諸神本懐集をあらわし、「それ佛陀は神明の本地、神明は佛陀の垂迹なり。本にあらざれば迹を垂るることなく、迹にあらざれば本をあらわうことなし。神明といひ、佛陀といひ、おもてとなり、うらとなりて、たがひに利益をほどこし、垂迹といひ、本地といひ、権となり、實となりてともに済度をいたす。」といい、蓮如は『御文』で「一切の神明と申すは本地は佛菩薩の変化にてましませども、この衆生をみるに佛菩薩にはすこしちかずきがたく、おもふあいだ、神明の方便にかりに神とあらわれて、衆生に縁んを結びて、その力もてたよりとして遂に佛法にすすめいれんがためなり。これすなわち和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはりと云へるは、此の心なり。さればいまの世の衆生仏法を信じ、念仏をむまをさん人をば神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆへに弥陀一佛の悲願に帰すればとりわけ神明をあがめず、信ぜずとも、そのうちに同じく信ずる心はこもれるゆへなり。」といっている。