福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

瞑想の段階

2016-08-03 | 諸経
瞑想の段階

仏教における禅定(三昧)の段階について『大般若波羅蜜多經』等では、「九次第定」といい9段階あるとされています。(これは密教の瞑想とはまったくことなるものですが)「九次第定」とは、具体的には、色界の初禅・第二禅・第三禅・第四禅の四、無色界の空無辺処定・識無辺処定・無所有処定・非想非非想処定の四、および滅尽定の計九段階です。

■色界 
「色界定」は、「欲界の我欲から離れて、三昧にひたり喜悦・幸福感に満ちる禅定状態」、と言われる。光を食物とする(極光浄天(光音天ともいう)では光を言葉ともする)。1、初禅天 、2、第二禅天、3、第三禅天がありそれぞれにまた天がある。
長阿含経には「色界衆生有二十二種。一者梵身天。二者梵輔天。三者梵衆天。四者大梵天。五者光天。六者少光天。七者無量光天。八者光音天。九者淨天。十者少淨天。十一者無量淨天。十二者遍淨天。十三者嚴飾天。十四者小嚴飾天。十五者無量嚴飾天。十六者嚴飾果實天。十七者無想天。十八者無造天。十九者無熱天。二十者善見天。二十一者大善見天。二十二者阿迦尼吒天。」として色界の天は二十二種ありとする(天の種類・名は経により異なる)。

1、 初禅 --離生喜樂といわれる。-「欲界の悪を離れて心に喜受、身に楽受を感ずることを説けるものにして、これを「離生喜樂」と名ずけた(仏教大辞典)。」
・「欲惡不善の法を除き有覺有觀にして離生喜樂あり初禪に入る。(長阿含経第八、」・「初禪正受の時、言語寂滅す、(雑阿含経十七)」・「欲愛を遠離し、心寂静にして能く審慮し、尋伺ありて喜楽の情態に住するを初禪という。(仏教大辞典)」ここには
・梵衆天(順正理論第二十一「広善の所生なるがゆえい名ずけて梵となし、この梵大なるがゆえに大梵となす。・・この梵威徳等優れたるがゆえに名ずけて大となす。大梵の所有所化所領なるがゆえに梵衆と名ずけ」
・梵輔天(梵輔とは大梵の前にて行列侍衛するがゆえに)
・大梵天、の三ないし四梵天(長阿含等にはこれにくわえて最初に梵身天を置く)あり。
2、 第二禅 ---第二禅は「定生喜樂」といわれる。言語によるものとよらないものの二種類の思考(尋・伺)が消えることにより心が統一され、三昧から生じる喜悦感と幸福感に満ちた禅定。「有覺観を滅し内信一心に、無覺無觀にして定生喜樂あり第二禪に入る(長阿含経)」。「第二禪正受の時、覚観寂滅なり、(雑阿含経十七)」「定生喜樂」とはこの定によりてすぐれたる喜楽を生ずる事を説いたもの。尋伺を離れ信相明浄にして喜楽の情態にあるを二禪。(仏教大辞典)」
ここには
・少光天
・無量光天(光明勝れて測りがたきゆえに無量光)
・極光浄天(光音天。浄光遍く自他を照らす故に極光浄。言語あることなく唯定心より発する光明を以て意を通ずる。)の三天あり。
なおこの二禪天以上は壊劫にもぶじであることは倶舎論に書かれている。倶舎論巻12「若し時に人趣にて此洲に一人ありて無師法然に初靜慮を得、靜慮より起ちて如是言を唱ふ「離生喜樂甚だ樂し、甚だ靜なり」と。餘人聞き已りて皆な靜慮に入り、命終して並びに梵世中に生ずるとことを得る。乃至此洲に有情都べて盡きなば是れ已に贍部洲の人を壊すと名ずく。・・・若し時に梵世の隨
一の有情が無師法然に二靜慮を得、彼の定より起ちて是の如き言を唱ふ、「定生喜樂は甚だ樂し、甚だ靜なり」と、餘の天、聞き已りて皆な彼の靜慮に入り命終して並びに極光淨天に生ずることを得、乃至梵世中に有情都べて盡くれば如是を名ずけて已に有情世間を壊すとなす。(こうして欲界と初禪天を焼き尽くすのが壊劫であるが二禪天まで逃れた有情は無事となる)


、第三禅 -「-離喜妙楽」といい「喜」を離れて「妙楽」を受ける境地とされる。「-喜を離れて捨を修し進を念じて自ら身樂を知る。諸聖の所求を憶念し樂を捨て第三禪に入る。(長阿含経)」「第三禪正受の時、喜心寂滅、(雑阿含経十七)」「喜楽を離れ、正念正智にして自他の妙楽に住するを三禪。(仏教大辞典)
ここには
・少浄天(意地の楽受を名ずけて浄となす。自他のなかにおいてこの浄、最も劣なるがゆえに少浄)
・無量浄天(この浄測りがたきがゆえに無量浄)
・遍浄天(この浄、周遍するがゆえに遍浄)の三天があり。
、第四禅 --「捨念清浄」といい、長阿含には「苦樂行を離れて先ず憂喜を滅し、不苦不樂捨念清淨にして第四禪に入る。」とある。「第四禪正受の時、出入息寂滅、(雑阿含経十七)」「身心の楽を離脱し不苦不樂に住して極善清浄なるを四禪 (仏教大辞典)」。
ここには、
・無雲天(空中天の所居の地は雲の密集する如くなるがゆえに「雲」となす。このうえの諸天は雲地なし。無雲の首にあるがゆえに無雲)
・福生天(異生の福ありて往生すべきところなるがゆえに福生)
・広果天(『順正理論』は、「異生果中此最殊勝、故名広果」(有情が生まれ変わることのできる世界としては最高の天であるため、広果天という。)
・無煩天(離欲の聖者は聖道の水を以て煩悩の垢を洗うがゆえに「浄」となし、浄身に所止なるがゆえに浄居と名ずく。あるいはこの天のなかには異生のまじわることなく純聖の所止なるがゆえに浄居と名ずく。繫(煩)雑なき中のもっとも最初なるがゆえに「無煩」)
・無熱天(もろもろの熱悩をはなれるゆえに無熱)
・善現天(上品の雑修静慮を得れば果徳あらわれやすきがゆえに善現)
・善見天(雑修定の障は余品至微にして見極めて清徹するがゆえに善見)
・色究竟天(衆苦所依の身の最後辺に至るを色究竟)の八天あり。

■無色界。
この境地を指して、倶舎論には「無色界の中にはすべて所あることなく、色法なきをもって方所あることなし。ただ異熟生の差別に四あり。空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処なり。この四は所に上下あるにあらず、ただ生によるがゆえに勝劣あり。・・」とあり、「この界に生ずる有情は色質を有せずただ受想行識の四蘊をもって体とす。(仏教大辞典)」とあります。

5、空無辺処、「空は無辺である」とする三昧の境地。「空無辺の解を作せるものの招く異熟生の報(業の結果)をいう。(仏教大辞典)」
「如何が空無辺処なる、品類足に説く『空無辺処に二種あり。いわく定および生なり。もし彼の所に生ずれば無覆無記(絶対的に善悪から離れている)の受想行識あり。このごときを総じて空無辺処という。』・・このなか「定」とは無色定なり。「生」とはすなわち無色界の生をとく。もし彼の所に生ずれば初行の者はまずまさに垣上、樹上、崖上、舎上等の諸々の虚空の相を思惟しこの相を取りおわりて仮想勝解して無辺空の相を観察照了すべし。さきに無辺空相を思惟して加行を修するをもって展転して初無色定を引起するがゆえにこれを説いて空無辺処という。(大毘婆沙論)」

6.識無辺処、「識は無辺である」とする三昧の境地。三世(過去・現在・未来)の識が悉く、定中に現じて清浄寂静なる果報をいう。外の空の相を厭い、内なる識を観じて、識が無辺であると達観すること。

7、無所有処。識無辺処を厭離し無所有処定を修して感ずる異熟果をいう。中阿含二十四に「無色の衆生あり、一切無量の識所を度する 無所有処なり。この無所有処、成就して遊ぶはいわく無所有処天なり。」いかなるものもそこに存在しないという三昧の境地。釈尊は修業時代にアーラーラ・カーラーマ(阿羅邏迦蘭、「空無辺処」の悟りにいた)を訪れたがここではないとして去っている。

、非想非非想処、意識しようとするこころ「想(saññâ)」さえ起こさせない三昧の境地.釈尊は修業時代にウッダカ・ラーマ・プッタ(鬱頭藍弗、非想非非想処を覚っていた)を訪れたが去っている。

■無色界をも超えたお釈迦様の悟りの境地
、滅尽定、心のあらゆる動きが止滅している三昧の境地。 悟った人は最長七日間、滅尽定のままで居られるともいわれる。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 7日の氷川神社の御祭神と本地 | トップ | 明日8月7日一宮参拝参加の方... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

諸経」カテゴリの最新記事