福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・15/27

2024-11-25 | 諸経

観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・15/27

十五、   女に七と三との苦ある事。乗仙僧都の事。

輔正記(法華経文句輔正記)に云、女に七の苦あり。一には形悪く生れ付たる事を苦に思ふなり。二には嫉妬の苦なり。夫が余所へ行くは心もとなく思ふなり。三、嫁姑のなかの悪しき苦なり。四には愚痴してさしてなきことを悔やむ苦なり。五にはものをいふ事多くしてもずのさへずる如くなり。我が機に不相者は神も仏も悪しく云ことなり。六には食を貪り而も大食するなり。七には子無き事を苦とするといふに

補正記に三の故を釋せり。一には夫に棄てらるるなり。女房を呼ぶ事は子を儲けて家をつがせんがためなり。故に子無ければ夫に捨てらる。設ひ夫はすて子とも後にまま子の世になれば必ずまま子に捨てらるるゆへなり。二には傍婦に軽んじられ、また下女なんども軽んじむるなり。三には傍人に咲(わらわ)るるといへり。故に女人は子無き事もっての外の苦なり。之に付きて子を求むる事は男も同じなり。何ぞ女人ばかりを出すやといふに、女人は生れ落ちれば子を持つ望みを成じて枕などを懐きて子といふなり。是則ち生まれつき女人の功能なれば別して一段とするなり。而るに上には婬欲を離る相を説き、此には二求満足する事を説き玉ふは又婬欲を進むるに似たり。いかんといふに観音は人の願に随て所望を満足せしめ玉ふ菩薩なり。故に三毒を離れよと教玉ふとも又子を求るものあらば其の願を満足せしめ玉ふべきなり云々(法華經文句輔正記卷十「解云女人以無子為苦夫之所棄並婦所輕傍人所㗛又婦有七失六猶可忍無子最劇容惡性妬不能事公姑貪食無子拙無子既苦故標女人求男也德業者明士有百行智居其首若但智而無福則位卑而財貧觸途墂坎智與福合彌相扶顯福則財位高昇慧則名聞博遠故云便生等也求女業者端正七德之初但端正無相者或卑孤少寡相貌不佳今明貌與相相扶彌顯其德端正則招寵愛相則招於福敬故云眾人愛敬(云云)」)ことさら殊勝なり。されば先徳は智論を引いて此の事を釋し玉ふとき婬欲の鈎に引かれて佛道に入るとなり。又子を願ふとも此の願が満足すればそれより観音殊勝に御座すといふて女房は偏向の者なれば一偏に信ずれば是が縁と成りて菩提にいたるなり。これ併しながら婬欲の鈎に引かれて終に仏道に至る故にかれがのぞみの方よりとって済度し玉ふなり。仍って婬欲を進るには似たれども終には三毒を離るる義なり。

都のほとりにやもめ女房一人あり。七十になる父と三歳になる子を持ちたり。食物無くして飢餲に及ぶ故に父と子との二人をすごしかねて我が子をばつれてゆき仁和寺の橋の下に捨て、我が父ばかりを養ふなり。而に此の女房、子を捨時一尺四寸(53㎝)に卒塔婆を作り是に歌を書き子に添て捨てたるその歌に「子をすつる 形見の 卒塔婆 いかばかりさらでは何と親を助けん」といへり。山法師此の子を拾ひて我が在所へつれゆきそだつるに後には三塔(西塔、東塔、横川)一の學匠になり、乗仙僧都とて天下に隠れなき人と成る也。其の後この僧都、母を尋る為に若し又此の世を過ぎ玉は後生菩提の為とて坂本に於いて百日談義をし同じく施行を引るるなり。左の手に母の捨しとき添て捨てたる卒塔婆を持ちて右の手には料足を以て施行をひくに、六十日七十日過ぎれども母に尋合はず。そのとき僧都卒塔婆の歌の末を書替たり。「子をすつる 形見の卒塔婆 いかばかり さらではなにと 親を尋ねん」と。其の後多くの非人の中に老女の有りしが此の卒塔婆を見て涙をはらはらと流すなり。僧都此の由を見玉ひて密かに人を遣りて呼び寄せて汝の子なり、我は母也と互に名乗り給ふとなり。その後に草庵を結び母を置きて朝夕養育し玉ふなり。子の教化によりて一心不乱に後生を願ひ母諸共に往生を遂げ玉へり(賢問子行状記(宝暦十二年刊)にあり)。子ほどの宝は之無し。在家の人は最も祈誓し子を持つべき事也。是即ち婬欲の方より取りよせて終に仏道に入るなり。

「無盡意。觀世音菩薩。有如是力。若有衆生。恭敬禮拜觀世音菩薩。福不唐捐。」俗書には唐とは・也。捐といふは弃(棄)なり。是即ち観音を念じたてまつるに付て浅く念ずれば浅く利益し、深く念ずれば深く利益し如何様にも弃るべからざること大事なり。

「是故衆生。皆應受持觀世音菩薩名號。無盡意。若有人受持六十二億恒河沙菩薩名字。復盡形供養飮食衣服臥具醫藥。於汝意云何。是善男子善女人功徳多不。無盡意言。甚多世尊。佛言。若復有人受持觀世音菩薩名號。乃至一時禮拜供養。是二人福正等無異。於百千萬億劫不可窮盡。無盡意。受持觀世音菩薩名號。得如是無量無邊福徳之利」この文は持名を勧むる答也。それとは観音の神力殊勝なる故に此の菩薩の名号を勧め玉ふなり。此の下に三あり。初めの一行(是故衆生。皆應受持觀世音菩薩名號)は正しく持つを勧むる也。次に無盡意より下の六行(若有人受持六十二億恒河沙菩薩名字。復盡形供養飮食衣服臥具醫藥。於汝意云何。是善男子善女人功徳多不。無盡意言。甚多世尊。佛言。若復有人受持觀世音菩薩名號。乃至一時禮拜供養。是二人福正等無異)は校量なり。其れとは六十二億恒河沙の菩薩の名字を受持し飮食衣服等を以て一期の間供養するとも唯一時の間観音の名号を唱へ供養礼拝し奉る功徳も劣る事無しと云事なり。之に付いて両巻の疏に云く、四多四少と云事を釋するなり。一には六十二億の菩薩をば福田万と云なり。さて観音をば一の菩薩と云故に福田少といふなり。二に六十二億の菩薩の名号を唱ふるは持名の多なり。さて観音は一菩薩の名号なれば持名の少なり。三に尽形とは一期の間の事なれば時節多なり。さて観音を念ずる事は唯一時なれば時節少なり。四に飲食衣服等を以て供養するは供養多なり。さて観音をば唯礼拝供養するは供養少なり。仍って六十二億の菩薩を一期の間其の名号を唱へ飲食等の四を以て供養するものと唯一時の間観音一菩薩の名号を礼拝供養するものその功徳正等にして勝劣なしと説き玉ふなり。是則ち六十二億の菩薩の功徳を観音一菩薩の具足すし玉じゅなり。此の六十二億の菩薩はいかなる菩薩ぞといふに、疏に云く圓人唯一偏人即多六十二億菩薩等を格、一は圓の菩薩、一義に云く三世十方の一切の菩薩に対して観音一菩薩の功徳等は等しくして勝劣あるべからずと云なり(妙法蓮華經文句「圓人唯一偏人則多。格六十二億偏菩薩。等一圓菩薩也。」)。其の故は一切如来の大慈悲は皆一躰の観世音に集まると釋して、一切諸仏の慈悲をば観音一菩薩の具足し玉ふゆへなり。六十二億の菩薩とは一義に云、娑婆世界に住して衆生を利益し玉ふ菩薩六十二億有り。之に対して衡量すと云也。一義には観音の分身に六十二億の菩薩之有り、是に対して云也といへり。五大院の先徳は真言經を以て六十二億の數を釋し玉へり。六十二億とは胎金両部蘇悉地の諸尊也。両部合成して一千三百餘尊あり。是の經の六位を以て六十二億と為すと。六とは蘇悉地の六大なり。三密教の意は一尊を讃嘆する時諸尊悉く一尊なり。

次に「無盡意受持」より下は三結歎也。上来の文旨委しく心得みこれをまで冥の利益なり。夫れとは観音の直に目前へ来玉ふ事はなけれども名号を唱へ身に礼拝して七難三毒を離る故に冥の利益なり。大悲抜苦の一段ここに畢る。

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