第九課 人生の広い道
私たちの持っている人間性、これを刈り取ってはいけず、さればと言って、伸び放題うっちゃって置いてもいけない、なかなか難しいことになりました。しかし、こう押し詰めて行って、よく考えてみると、そこに一筋通れる道が残されているのが判ります。否、そこを是非通って貰いたいとて実は人生の本道が広く道を真中に開いて待っているのでありました。それは言うまでもなく、前に述べましたように、一見、邪魔、不善に見える人間のいろいろの性情の根は、実は非常に大切なものでありますから、これを潰したり押えたり、刈り取ったりしないで、これらをみんな活かして善用して行き、立派に役立てて進んで行くという人生の大道です。
仏教の言葉で、「煩悩即菩提」(迷いや欲の本性は取りも直さず悟りのもと)と言ったり、「凡聖不二ふに」(愚かしい心と霊知の心と根は一つ)と言うのは、この事を指しているのです。
むかしから、この事実を説明するためにいろいろの苦心がなされております。大乗仏教の沢山の経巻も、人々にこの事実を開いて説き示すために出来たようなものですし、名僧知識たちが教義を工夫されたのも、やはり目的はこの一点にかかっております。
田の草をそのまま田への肥料こやしかな
この句はよくこの意味の説明の引合いに出される句です。田の草は私たちの人間性をさします。人間性が蔓はびこるのを邪魔な雑草と思って、わきへ抜き捨ててはいけない。雑草が使いようで田畑の肥料になるではないか。邪魔のように見える低劣な人間性も人間向上の培養素になるではないかというのであります。今日では、田の草どころでなく、わざと紫雲英草れんげそうを種子蒔き前の田に植えて、空中窒素を地中に吸い取らせて土地を肥沃こやします。
文殊菩薩がある日、善財童子(文殊は智慧の象徴、善財は求道者、両者とも、華厳経けごんぎょう中の人物です)に向って、「おまえ、これから世界中を探してみて、もし、薬にならないような草が在ったら持って来い」。そう言って外へ出してやりました。善財童子は命令に従って世界中探して廻りましたが、絶対に薬にならないという草は一本も見付かりませんでした。そこで手持ち無沙汰で帰って来て、文殊にその報告をしたという寓話が「五燈会元ごとうえげん」という本に載っております。これなぞも人間性といわれる性質の中のどれ一つとして絶対に人間に不利益と見究めのつけられるものは一つもない、みな使い方によっては立派に人間の向上、進歩、発展の薬になるものだという寓意を含んでおるのであります。
なるほど、そう言われてみると、神経過敏症が文学者の職業に役立ったり、家に落付かない性分の人が周旋業を始めて成功したり、虫取りの好きな子供が昆虫学者になったり、大腕白の子供が英雄になったり、いろいろその性質の活かし方によっては申し分のない役に立ちます。
この人間性のどれ一つにも見限りをつけず、必ず活用の途ありとして、その価値ねうちの出し方を研究いたします。これもまた大乗(大乗とは、悟りへ運ぶ大きな乗物の意味)仏教の特色の一つであります。前の小乗(小乗とは、小さな乗物)仏教や、外道と違っている点はここです。